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リッチー・ブラックモアの生涯――ディープ・パープル、レインボー、そして中世音楽へ

「Smoke on the Water」の世界的に有名なギターリフを生み出し、ディープ・パープルとレインボーという2つの名バンドを率いたリッチー・ブラックモア。

黒い衣装に身を包み、フェンダー・ストラトキャスターを自在に操る姿から「The Man in Black」と呼ばれた彼は、ハードロックにクラシック音楽の要素を本格的に持ち込んだ先駆者の1人です。

その一方で、強烈な完璧主義や気難しい性格、突然のメンバー交代、ステージ上での破天荒な行動でも知られてきました。リッチーの歩みは、単なる成功者の物語ではありません。理想の音を追い求めるたびに仲間と衝突し、成功したバンドさえ自ら離れ、それでも新しい音楽へ進み続けた人物の物語です。

本記事では、リッチー・ブラックモアの生涯を時系列で振り返ります。

目次

リッチー・ブラックモアの歩みを簡単に整理

年代主な活動代表作・主な出来事
1945~1959年少年時代11歳頃にギターを始め、クラシックの基礎を学ぶ
1960~1967年修業時代ジ・アウトローズ、ジョー・ミークのセッション、スクリーミング・ロード・サッチなど
1968~1969年第1期ディープ・パープル「Hush」、サイケデリック/プログレッシブ色の強い初期作品
1969~1973年第2期ディープ・パープル『In Rock』『Fireball』『Machine Head』『Made in Japan』
1973~1975年第3期ディープ・パープル『Burn』『Stormbringer』、California Jam、最初の脱退
1975~1978年ディオ期レインボー『Ritchie Blackmore’s Rainbow』『Rising』『Long Live Rock ‘n’ Roll』
1979~1984年ポップ路線のレインボー「Since You Been Gone」「I Surrender」「Street of Dreams」
1984~1993年ディープ・パープル再結成『Perfect Strangers』、1993年に永久脱退
1994~1997年レインボー再結成『Stranger in Us All』
1997年~ブラックモアズ・ナイトルネサンス音楽、フォーク、アコースティック音楽へ転向
2016~2019年レインボー限定復活ロニー・ロメロを迎え、往年のロック曲を再演
2020年代晩年の活動『Nature’s Light』、体調を考慮しながら活動を継続

1945年、イングランドに生まれる

リッチー・ブラックモア、本名リチャード・ヒュー・ブラックモアは、1945年4月14日、イングランド南西部のサマセット州ウェストン=スーパー=メアで生まれました。第2次世界大戦がヨーロッパで終結する約3週間前のことです。

2歳の頃に家族でロンドン西部のヘストンへ移り、そこで少年時代を過ごしました。

学校の勉強にはあまり関心を示さず、教師や集団生活にもなじめなかったといわれています。後年のインタビューでは、学校でたびたび体罰を受けた経験が、人と話すことへの苦手意識につながったとも振り返っています。

リッチーの人生を変えたのは、11歳の頃に父親から与えられたギターでした。ただし、父親は無条件で買い与えたわけではありません。「弾くなら正しく習え」という条件を付け、リッチーをクラシックギターのレッスンへ通わせました。

当時の本人は必ずしも熱心な生徒ではなかったようですが、この経験によって運指やスケール、コードの基礎を学びます。後にバッハなどのクラシック音楽をロックへ取り入れるうえで、この少年時代の教育は重要な土台になりました。

若い頃に影響を受けたのは、エルヴィス・プレスリー、クリフ・リチャード&ザ・シャドウズ、チェット・アトキンス、レス・ポールらです。なかでもザ・シャドウズのハンク・マーヴィンは、英国の若いギタリストに大きな影響を与えた存在でした。

1960年代前半、セッション・ミュージシャンとして修業

15歳で学校を辞めたリッチーは、ヒースロー空港で無線技師の見習いとして働き始めました。電気回路に触れたこの時期の経験は、後にアンプや機材へ強い関心を持つきっかけにもなったと考えられます。

しかし、彼の関心はすでに音楽へ向かっていました。10代半ばから地元のバンドで演奏し、やがてロンドンの音楽業界へ進出します。1960年代初頭には、独創的な録音技術で知られるプロデューサー、ジョー・ミークの周辺でセッション・ギタリストとして働くようになりました。

リッチーはインストゥルメンタル・バンドのジ・アウトローズに参加し、ハインツ、グレンダ・コリンズらの録音を支えました。その後もスクリーミング・ロード・サッチ、ニール・クリスチャンなど、多くの歌手やバンドのバックで演奏しています。公式プロフィールにも、ジョー・ミークのセッション、ジ・アウトローズ、ハインツ、スクリーミング・ロード・サッチらとの活動が、プロとしての出発点として記されています。

この時代のリッチーは、まだスターではありません。しかし、スタジオでは短時間で求められた演奏を形にする技術を学び、ステージではギターを投げ上げたり、激しく動き回ったりするショーマンシップを身につけました。

ドイツのクラブや米軍施設でも数多く演奏し、ハンブルクをはじめとする各地で経験を積んでいます。当時のドイツは英国人ミュージシャンへの需要が高く、長時間の演奏をこなすことが若い演奏家の実地訓練にもなっていました。リッチーは、この環境で音量、エコー、アンプの改造などを研究し、自分だけのギターサウンドを作り始めます。

1967~1968年、ディープ・パープル結成

1967年末、リッチーは新バンド「ラウンドアバウト」の構想に誘われます。発案者は元ザ・サーチャーズのドラマー、クリス・カーティスで、キーボード奏者のジョン・ロードも計画に参加していました。

カーティスは途中で構想から離れましたが、リッチーとジョン・ロードを中心にメンバー探しが続けられます。そこへドラマーのイアン・ペイス、ボーカルのロッド・エヴァンス、ベースのニック・シンパーが加わり、1968年にバンドが始動しました。

「ディープ・パープル」という名前は、リッチーの祖母が好んでいた同名の古い楽曲から取られたとされています。

初期の第1期ディープ・パープルは、後年の重厚なハードロックとはかなり異なるバンドでした。サイケデリックロック、ポップ、クラシック、プログレッシブロックを混ぜ合わせた実験的な音楽を演奏しており、1968年にはビリー・ジョー・ロイヤルの曲をカバーした「Hush」が米国でヒットします。

第1期は『Shades of Deep Purple』『The Book of Taliesyn』『Deep Purple』の3枚を発表しました。ここでリッチーのギターとジョン・ロードのハモンドオルガンが競い合う、ディープ・パープル独特のサウンドの原型が作られます。

しかし、米国では注目された一方、英国での人気は伸び悩みました。さらに、レッド・ツェッペリンなどの登場によって、より重く攻撃的なロックが時代の中心になり始めます。

リッチーは「今後はハードロックの時代になる」と考え、バンドの方向転換を強く求めました。

1969~1973年、第2期ディープ・パープルで世界的スターへ

1969年、ロッド・エヴァンスとニック・シンパーに代わり、ボーカルのイアン・ギランとベースのロジャー・グローヴァーが加入します。

リッチー・ブラックモア、ジョン・ロード、イアン・ペイス、イアン・ギラン、ロジャー・グローヴァーによる第2期は、ディープ・パープルの「黄金期」と呼ばれる編成です。

1970年に発表された『Deep Purple in Rock』では、それまで残っていたポップ色やサイケデリック色が後退し、音量、スピード、即興演奏を前面に出したハードロックへ大きく変化しました。「Speed King」「Child in Time」などの楽曲は、この編成の激しさと高い演奏力を象徴しています。

リッチーのギターとジョン・ロードのオルガンは、伴奏楽器の枠を超えて互いに競い合いました。イアン・ペイスの高速で細かなドラム、ロジャー・グローヴァーの堅実なベース、イアン・ギランの高音ボーカルが加わり、5人の個性がぶつかることで巨大なエネルギーが生まれたのです。

1971年には『Fireball』、1972年には代表作『Machine Head』を発表します。

『Machine Head』の録音は、スイスのモントルーで行われました。ところが録音直前、フランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションの公演中に観客が照明弾を発射し、予定していたモントルー・カジノが火災で焼失します。

メンバーは、レマン湖の上空へ煙が広がる光景を目撃しました。この事件から生まれたのが「Smoke on the Water」です。

リッチーが作った「ジャッ、ジャッ、ジャー」という短いリフは、複雑な速弾きではありません。しかし、音の間、重さ、覚えやすさが完璧に組み合わされ、ロック史上最も有名なギターリフの1つになりました。

同じアルバムには「Highway Star」「Lazy」「Space Truckin’」なども収録されています。「Highway Star」のギターソロでは、バッハを思わせるコード進行とアルペジオをハードロックへ取り込み、後のネオクラシカル・メタルにつながる方法論を早くも示しました。

同年に日本で録音されたライブ盤『Made in Japan』は、ディープ・パープルの即興性と爆発力を世界へ伝える作品となります。この時期、バンドはレッド・ツェッペリン、ブラック・サバスと並ぶ英国ハードロックの代表格へ成長しました。

ただし、成功の代償としてツアーは過密になり、メンバーは心身ともに疲弊します。リッチー自身も肝炎を患い、休養を余儀なくされました。

さらに、リッチーとイアン・ギランの対立が深刻になります。2人とも音楽へのこだわりが強く、ステージ上では強烈な緊張感を生み出しましたが、バンド運営では互いに主導権を譲りませんでした。

1973年、ギランはバンドを離れ、グローヴァーも解雇されます。最強の演奏集団と呼ばれた第2期は、人気絶頂のなかでいったん終わりを迎えました。

1973~1975年、第3期ディープ・パープルと方向性の衝突

新たなボーカルには、当時ほとんど無名だったデイヴィッド・カヴァデールが選ばれました。ベース兼ボーカルには、トラピーズで活動していたグレン・ヒューズが加入します。

第3期ディープ・パープルは1974年に『Burn』を発表しました。表題曲「Burn」は、リッチーの高速ギター、ジョン・ロードのオルガン、カヴァデールとヒューズの2人のボーカルが一体となった名曲です。第2期の単なる再現ではなく、ブルース、ソウル、ファンクの要素を取り入れた新しいディープ・パープルを示しました。

同年4月、米国で開催された「California Jam」では、リッチーの破天荒なステージが歴史に残ります。

出演時間をめぐって主催者側と対立したうえ、演奏中にテレビカメラが自分の前へ入り込むと、リッチーはストラトキャスターでカメラを攻撃しました。さらに終盤ではアンプを燃やす演出を行いましたが、火薬や燃料の量が想定を超え、大爆発が発生します。

これは彼の危険な一面を象徴する事件であると同時に、巨大フェスティバルで観客の記憶を奪った、徹底したショーマンシップの表れでもありました。

しかし、第3期の音楽がファンクやソウルへ近づくにつれ、リッチーは居場所を失っていきます。『Stormbringer』では、その傾向がさらに強まりました。

リッチーはクォーターマスの「Black Sheep of the Family」を録音することを提案しましたが、バンド側は採用しませんでした。彼はこの曲を、ディープ・パープルの前座を務めたことがあるバンド、エルフのメンバーと録音します。そこでボーカルを担当したのがロニー・ジェイムズ・ディオでした。

当初は単発の録音企画でしたが、リッチーはディオとの制作に大きな可能性を感じます。ディープ・パープルで妥協を続けるより、自分の理想を実現できるバンドを作る道を選び、1975年に脱退しました。

1975~1978年、レインボーとロニー・ジェイムズ・ディオ

1975年、リッチーはエルフのメンバーを母体としてレインボーを結成し、デビュー作『Ritchie Blackmore’s Rainbow』を発表しました。

ディオは、小柄な体からは想像できないほど力強い声を持ち、城、虹、魔法、運命といった幻想的な世界を歌詞にしました。リッチーが好んでいたルネサンス音楽やバロック音楽の響きと、ディオの物語性は見事にかみ合います。

デビュー作には「Man on the Silver Mountain」「Catch the Rainbow」「Sixteenth Century Greensleeves」などが収録されました。ここでリッチーは、ブルースを基盤とする従来のハードロックから一歩進み、クラシック音楽と中世的な幻想世界を融合させます。

ただし、リッチーは最初のアルバム完成後、ディオを除くエルフ出身メンバーの大半を交代させました。ドラマーにコージー・パウエル、ベースにジミー・ベイン、キーボードにトニー・カレイを迎え、1976年に『Rising』を制作します。

「Stargazer」は、その新編成が生んだ代表曲です。8分を超える大作で、重いギターリフ、コージー・パウエルの巨大なドラム、オーケストラ、ディオのドラマチックな歌唱が一体となりました。ハードロックとクラシック音楽の融合を語るうえで欠かせない曲であり、後のヘヴィメタルへ大きな影響を与えています。

ライブでは、数千個の電球を使った巨大な虹形の照明装置がステージを覆いました。黒ずくめのリッチーがその下でギターを弾く姿は、レインボーの神秘的なイメージを決定づけます。

1978年には『Long Live Rock ‘n’ Roll』を発表しました。しかし、米国市場での成功を強く望むリッチーは、より短くラジオで流しやすい曲を求めるようになります。一方のディオは、幻想的で壮大なハードロックを続けることを望みました。

音楽的な方向性の違いからディオは脱退します。わずか3枚のスタジオアルバムで終わった両者の協力関係は短いものでしたが、この時期は今もレインボーの黄金期として高く評価されています。

1979~1984年、ヒット曲を狙うレインボーへ

ディオの後任には、ポップやR&Bの経験を持つグラハム・ボネットが加入しました。さらに、かつてディープ・パープルを追われたロジャー・グローヴァーを、ベーシスト兼プロデューサーとして迎えます。

1979年の『Down to Earth』では、ラス・バラード作の「Since You Been Gone」がヒットしました。「All Night Long」も人気を集め、レインボーはそれまで以上に幅広い聴衆へ届くようになります。

中世的な衣装と世界観を持つディオから、短髪にスーツ姿のボネットへの交代は、見た目にも音楽にも大きな変化でした。初期の重厚なレインボーを愛するファンからは反発もありましたが、リッチーにとっては美しいメロディと強い曲を追求した結果でした。

ボネットは1枚で離れ、1980年にジョー・リン・ターナーが加入します。以後、『Difficult to Cure』『Straight Between the Eyes』『Bent Out of Shape』を発表し、「I Surrender」「Stone Cold」「Street of Dreams」などのヒットを生みました。

この時代のレインボーは、初期の様式美ハードロックから、AORやポップロックに近い洗練されたサウンドへ変化しています。それでもリッチーのギターには、クラシック的なフレーズ、鋭いリフ、即興性が残っていました。

レインボーでは、アルバムごとに近いほどメンバー交代が続きました。リッチーは高い演奏力と規律を要求し、自分の構想に合わないと判断すれば実力者でも入れ替えました。この姿勢は作品の水準を高める一方、彼を「一緒に働くのが難しい人物」として印象づける原因にもなります。

1984年、ディープ・パープル黄金期メンバーが再結成

1984年、リッチー、ギラン、グローヴァー、ロード、ペイスの第2期メンバーが再び集まりました。これに伴い、レインボーはいったん活動を停止します。

再結成作『Perfect Strangers』は大きな成功を収めました。表題曲や「Knocking at Your Back Door」では、1970年代の音をそのまま再現するのではなく、1980年代らしい重厚な音作りのなかで5人の個性を復活させています。

しかし、リッチーとギランの関係は再び悪化します。1987年の『The House of Blue Light』を経て、1989年にギランが離脱。後任には、レインボーで歌っていたジョー・リン・ターナーが入り、1990年に『Slaves and Masters』を発表しました。

レコード会社や他のメンバーは黄金期の編成を求め、ギランは1992年に復帰します。1993年の『The Battle Rages On…』は第2期メンバーによる最後のスタジオ作品になりました。

その後のツアーでも両者の対立は解消されず、リッチーは1993年11月、フィンランドのヘルシンキ公演を最後にディープ・パープルを永久に離れます。残された日本公演にはジョー・サトリアーニが代役として参加しました。

リッチーの脱退は突然でしたが、バンド側も彼なしで活動を続ける決断をします。ディープ・パープル公式サイトに掲載された後年の記事でも、ブラックモアが1993年11月に突然離脱し、サトリアーニが残りの公演を支えた経緯が振り返られています。

1994~1997年、レインボーを一度だけ復活

ディープ・パープルを離れたリッチーは、1994年にレインボーを再結成しました。

ボーカルにドゥギー・ホワイトを迎え、1995年に『Stranger in Us All』を発表します。「Wolf to the Moon」「Hunting Humans」「Ariel」などを収録したこの作品では、ディオ期を思わせる幻想的なハードロックと、1990年代らしい音作りが組み合わされました。

世界ツアーも行われましたが、この編成は1997年に活動を終了します。長年にわたりエレクトリックギターの大音量と激しいツアー生活を続けてきたリッチーの関心は、すでに別の音楽へ移っていました。

1997年、ブラックモアズ・ナイトで中世音楽へ

1997年、リッチーはパートナーのキャンディス・ナイトとブラックモアズ・ナイトを結成し、デビュー作『Shadow of the Moon』を発表しました。

それまでの主役だったストラトキャスターに代わり、アコースティックギター、マンドリン、リュート、ハーディ・ガーディなどが前面に出ます。音楽の中心になったのは、ルネサンス音楽、フォーク、ケルト音楽、そして穏やかなポップメロディでした。

突然の方向転換に、ハードロックファンの一部は驚きました。しかし、これは気まぐれに始めた余技ではありません。リッチーは以前からバッハなどの古典音楽を好み、レインボー時代にも「Sixteenth Century Greensleeves」や「Temple of the King」などで古楽的な要素を表現していました。

ブラックモアズ・ナイトは、リッチーが長年ロックのなかへ断片的に持ち込んできた世界を、音楽全体へ広げたプロジェクトだったのです。

キャンディスの物語的な歌詞と透明感のある歌声を中心に据え、リッチーは伴奏や編曲へ回ることも増えました。派手なギターソロで自分を見せるより、楽曲全体の雰囲気を作ることを重視するようになります。

2人は2008年に結婚しました。公私にわたるパートナーとして活動を続け、『Under a Violet Moon』『Fires at Midnight』『Ghost of a Rose』『The Village Lanterne』『Secret Voyage』『Autumn Sky』『Dancer and the Moon』『All Our Yesterdays』など、多数の作品を発表しています。

大規模なアリーナではなく、古城、劇場、歴史的建造物など、音楽の世界観に合った会場で演奏することもブラックモアズ・ナイトの特徴です。ディープ・パープルやレインボー時代より穏やかに見えるリッチーの姿は、ようやく自分の望む環境を手に入れたことを感じさせます。

2016~2019年、レインボーの音楽を再び演奏

2016年、70歳を超えたリッチーは、ロニー・ロメロをボーカルに迎えた新しいリッチー・ブラックモアズ・レインボーを始動させました。

ドイツと英国で行われた公演では、レインボーの「Man on the Silver Mountain」「Stargazer」「Long Live Rock ‘n’ Roll」だけでなく、ディープ・パープルの「Highway Star」「Black Night」「Smoke on the Water」なども演奏しています。

復活後のレインボーは継続的な世界ツアーを行う通常のバンドではなく、2016年から2019年にかけて期間限定で公演を行う形でした。それでも、長くアコースティック音楽を中心にしていたリッチーが再びストラトキャスターを持ったことは、世界中のファンを喜ばせました。

同じ2016年、ディープ・パープルはロックの殿堂入りを果たし、リッチーも対象メンバーの1人として顕彰されました。ただし、本人は式典には出席していません。

2020年代、81歳となった現在

ブラックモアズ・ナイトは2021年にスタジオアルバム『Nature’s Light』を発表しました。2023年には『Shadow of the Moon』の発売25周年記念版もリリースされ、デビュー作がリミックス、リマスターされています。

一方、年齢とともに健康上の問題も増えました。2025年11月にはブラックモアズ・ナイトの短期ツアーが途中で中止されました。リッチーは後に、激しいめまいに襲われ、立っていることさえ難しい状態だったと説明しています。

2026年5月に報じられたインタビューでは、81歳となったリッチーは療養しながら複数の医師の診察を受けていると語りました。長距離移動を伴うツアーからは距離を置く意向を示す一方、「今もいつも演奏している」「ステージで弾きたい」とも話しています。

今後は、キャンディスと暮らす米国ニューヨーク州ロングアイランドの自宅から近い場所での公演を検討しているとされています。

つまり、リッチーは音楽活動から完全に引退したわけではありません。ただし、かつてのような大規模な世界ツアーではなく、体調と移動距離を考慮しながら活動を続ける段階に入っています。

リッチー・ブラックモアがロック史に残したもの

リッチー・ブラックモアの功績は、「Smoke on the Water」という有名曲を作ったことだけではありません。

最大の功績は、ブルースを中心としていたロックギターに、バッハをはじめとするヨーロッパ古典音楽の旋律、コード進行、アルペジオを自然に取り込んだことです。

リッチー以前にもクラシック音楽を使ったロックは存在しました。しかし彼は、それを装飾ではなく、リフやギターソロの中核として用いました。その方法は、後にランディ・ローズやイングヴェイ・マルムスティーンをはじめ、多くのハードロック、ヘヴィメタル系ギタリストへ受け継がれます。

また、彼の演奏は単なる速弾きではありません。短く印象的なリフを作る力、音を伸ばすビブラート、ピッキングの強弱、即興演奏で曲の展開そのものを変える力に特徴があります。

フェンダー・ストラトキャスター、マーシャルアンプ、テープエコー、指板をえぐるスキャロップ加工も、リッチーを象徴する要素です。ギターを破壊するステージアクションを見せながら、その一方では音色や演奏の細部を徹底的に研究する職人気質を持っていました。

まとめ――成功よりも自分の音楽を選び続けた人生

リッチー・ブラックモアの生涯を振り返ると、1つの特徴が浮かび上がります。それは、成功した場所へとどまり続けるより、自分が次に演奏したい音楽を選んできたことです。

ディープ・パープルが世界的な成功を収めても、音楽性が合わなくなると脱退しました。レインボーでは理想の様式美ハードロックを完成させながら、今度はラジオで届くメロディを求めてポップな方向へ進みました。そして再結成ディープ・パープルも、自分の心が動かなくなれば去りました。

さらに、ロックギタリストとしての名声を維持できたにもかかわらず、1990年代後半にはエレクトリックギター中心の世界から離れ、ルネサンス音楽へ向かいました。

こうした選択は、周囲から見れば気まぐれに映ることがあります。強烈な完璧主義と支配的な振る舞いが、多くの優れたミュージシャンとの関係を壊したのも事実でしょう。

それでも、リッチーは自分の音楽的な直感に反する道を長く歩くことができない人物でした。その妥協のなさが数々の衝突を生み、同時に「In Rock」「Machine Head」「Burn」「Rising」など、ロック史に残る作品を生み出す原動力にもなりました。

ディープ・パープル、レインボー、ブラックモアズ・ナイト。3つの活動は一見すると別の音楽に見えます。しかし、その中心には一貫して、力強く美しい旋律、古典音楽への憧れ、そして自分にしか作れない音を追い求めるリッチー・ブラックモアの姿があります。

81歳となった現在、かつてのような長期ツアーは難しくなりました。それでも彼は、今もギターを弾き続けています。ハードロックの歴史を作った「黒衣の男」は、最後まで誰かの期待ではなく、自分が信じる音楽のなかで生きようとしているのです。


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