ギターの轟音、王室への挑発、生放送での放送禁止用語、暴力沙汰、薬物、そしてステージ上での空中分解――。
セックス・ピストルズは、音楽だけでなく、ファッション、言葉、態度、スキャンダルまで含めて「パンクとは何か」を世界に刻みつけたバンドです。
1975年の結成から1978年の実質的な解散まで、本格的な活動期間はわずか約2年半。オリジナルのスタジオアルバムも『Never Mind the Bollocks, Here’s the Sex Pistols』の1枚しか残していません。
それにもかかわらず、「Anarchy in the U.K.」「God Save the Queen」「Pretty Vacant」「Holidays in the Sun」などの楽曲は、後のパンク、ポストパンク、ニューウェイブ、オルタナティブロックに大きな影響を与えました。
一方、その歴史は音楽的な成功だけでは語れません。マネージャーのマルコム・マクラーレンによる過激な宣伝戦略、グレン・マトロックの脱退、シド・ヴィシャスの加入と薬物依存、ジョニー・ロットンの孤立など、結成当初から崩壊の種を抱えていました。
本記事では、セックス・ピストルズの歩みを結成前から解散、再結成、その後の動きまで、時系列に沿って分かりやすく紹介します。
セックス・ピストルズとはどのようなバンドなのか
セックス・ピストルズは、1975年にロンドンで結成されたイギリスのパンクロック・バンドです。
オリジナルメンバーは、次の4人です。
| メンバー | 担当 | 主な役割 |
|---|---|---|
| ジョニー・ロットン/ジョン・ライドン | ボーカル | 挑発的な歌詞と独特の歌声 |
| スティーヴ・ジョーンズ | ギター | 分厚く攻撃的なギターサウンド |
| グレン・マトロック | ベース | 主要楽曲の作曲とアレンジ |
| ポール・クック | ドラム | 安定した力強いリズム |
グレン・マトロックの脱退後、2代目ベーシストとして加入したのがシド・ヴィシャスです。
セックス・ピストルズという名前から、シド・ヴィシャスを最初に思い浮かべる人も少なくありません。しかし、シドはオリジナルメンバーではなく、代表曲の多くはグレン・マトロック在籍中に作られています。
また、シドはパンクを象徴する強烈な外見を持っていた一方、ベースの演奏力は十分ではありませんでした。唯一のオリジナルアルバムでは、ギターのスティーヴ・ジョーンズがベースの大部分を担当しています。
そのため、セックス・ピストルズの音楽を作った中心人物と、セックス・ピストルズのイメージを決定づけた人物は必ずしも同じではありません。
音楽面では、ジョーンズ、クック、マトロックが作り出す力強く親しみやすいロックンロールに、ロットンの怒りや皮肉に満ちた歌詞が組み合わされていました。
さらに、ヴィヴィアン・ウエストウッドのファッションと、マルコム・マクラーレンの挑発的な宣伝戦略が加わり、セックス・ピストルズは単なるロックバンドを超えた社会現象になったのです。
セックス・ピストルズの歴史を簡単に整理
| 年代 | 主な出来事 |
|---|---|
| 1971年 | マルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウエストウッドがロンドンでブティックを経営 |
| 1974年 | マクラーレンがニューヨーク・ドールズのマネージャーを経験 |
| 1975年 | ジョニー・ロットンを迎え、セックス・ピストルズを結成 |
| 1976年 | EMIと契約し、「Anarchy in the U.K.」でデビュー |
| 1976年 | テレビ生放送で「ビル・グランディ事件」を起こす |
| 1977年 | EMI、A&Mとの契約が相次いで終了 |
| 1977年 | グレン・マトロックが脱退し、シド・ヴィシャスが加入 |
| 1977年 | 「God Save the Queen」を発表 |
| 1977年 | 唯一のアルバム『勝手にしやがれ!!』を発売 |
| 1978年 | アメリカツアー中にジョニー・ロットンが脱退 |
| 1979年 | シド・ヴィシャスが薬物の過剰摂取で死亡 |
| 1979~1986年 | メンバー側がマクラーレンと法廷で争う |
| 1996年 | オリジナルメンバー4人で再結成 |
| 2002~2003年 | 再び一時的に活動 |
| 2006年 | ロックの殿堂入りを果たすが式典を拒否 |
| 2007~2008年 | 再結成ツアーを行い、サマーソニックにも出演 |
| 2024年 | ロットン抜きでフランク・カーターを迎えて公演 |
1956~1970年代前半|ジョン・ライドンの少年時代
後にジョニー・ロットンとなるジョン・ライドンは、1956年1月31日、ロンドン北部のフィンズベリー・パークで生まれました。
両親はアイルランド出身で、家族6人が2部屋のアパートで暮らす労働者階級の家庭でした。
ライドンは7歳のときに髄膜炎を患い、約1年間入院します。一時は昏睡状態となり、記憶障害によって自分の名前や両親の顔さえ分からなくなりました。
退院後も長期間にわたって記憶の混乱が続き、周囲の人々との関係を一から築き直さなければならなかったといいます。
ライドンは後年、この幼少期の闘病体験が「ジョニー・ロットン」へ向かう最初の一歩だったと振り返っています。
少年時代は比較的内向的でしたが、成長すると学校や教師、宗教的権威に対して強い反発心を示すようになりました。髪を緑色に染め、15歳で学校を去っています。
その後、ロンドンのクラブや若者が集まる場所へ出入りするようになり、同世代のシド・ヴィシャスと親しくなりました。
既存の社会に居場所を見つけられなかった経験が、後のロットンの反権威的な姿勢や、観客に好かれようとしない独特のステージ像につながっていきます。
1971~1974年|マクラーレンとウエストウッドのブティック
セックス・ピストルズの誕生を語るうえで欠かせないのが、マネージャーのマルコム・マクラーレンと、デザイナーのヴィヴィアン・ウエストウッドです。
2人は1971年、ロンドンのキングス・ロードにブティックを開きました。
店は時期によって名前や扱う商品を変え、ロックンロール、モーターサイクル文化、ボンデージなど、当時としては過激なファッションを販売するようになります。
最終的に店は「SEX」という名前になりました。
この店は、単に服を販売する場所ではありませんでした。既存の音楽や文化に不満を抱く若者が集まる、ロンドンのアンダーグラウンド文化の拠点になっていきます。
グレン・マトロックはこの店で働いており、スティーヴ・ジョーンズやポール・クックも店へ出入りしていました。
1974年、マクラーレンはアメリカへ渡り、ニューヨーク・ドールズのマネージャーを務めます。
ニューヨーク・ドールズは、派手な服装、退廃的な雰囲気、荒々しいロックンロールを特徴とするバンドでした。マクラーレンは彼らに強く引かれますが、バンドは間もなく解散します。
しかし、マクラーレンはニューヨーク滞在中に、ニューヨーク・ドールズ、ラモーンズ、テレヴィジョンなどにつながる初期パンクの空気を目撃しました。
帰国したマクラーレンは、ロンドンでも既存のロックに対抗する新しいバンドを作ろうと考えます。
1972~1975年|スティーヴ・ジョーンズとポール・クック
スティーヴ・ジョーンズとポール・クックは、ロンドンのハマースミス周辺で育った学校時代からの友人でした。
2人は「ストランド」などの名前でバンド活動を始めます。当初は満足に演奏できず、楽器や機材をそろえる金もありませんでした。
ポール・クックの証言によると、2人はコンサート会場へ忍び込み、ステージ上の楽器や機材を盗んだこともあったといいます。
デヴィッド・ボウイの「ジギー・スターダスト」時代の公演から機材を持ち出したという有名な逸話も残っています。
現在の感覚では到底許されない行為ですが、彼らが裕福な家庭の出身ではなく、正規の方法で音楽活動を始める環境を持っていなかったことも分かります。
ジョーンズとクックのバンドに、ブティック「SEX」で働いていたグレン・マトロックが加わります。
マトロックはビートルズやスモール・フェイセスなどのメロディーを重視した音楽を好み、バンドのアイデアを実際の楽曲へまとめられる存在でした。
この3人が、セックス・ピストルズの音楽的な土台になります。
1975年|ジョニー・ロットンの加入
1975年、マクラーレンはバンドのボーカリストを探していました。
そこで目に留まったのが、ブティック「SEX」に出入りしていた19歳のジョン・ライドンです。
当時のライドンは、ピンク・フロイドのメンバー写真に「I HATE」と書き加えたTシャツを着て、緑色に染めた髪を逆立てていました。
見た目からして、当時のヒッピー文化や大物ロックバンドへの反発を表現していたのです。
ライドンは店内のジュークボックスに合わせ、アリス・クーパーの「I’m Eighteen」を歌う簡単なオーディションを受けます。
一般的な意味で歌が上手かったわけではありません。しかし、相手を不快にさせるような目つき、独特の声、言葉を吐き捨てるような歌い方は、ほかのボーカリストにはないものでした。
ライドンは、傷んだ歯の状態から「腐った」という意味の「ロットン」と呼ばれ、ジョニー・ロットンの名前で活動を始めます。
こうして、ジョニー・ロットン、スティーヴ・ジョーンズ、グレン・マトロック、ポール・クックという初期メンバーがそろいました。
1975年|セックス・ピストルズのライブデビュー
セックス・ピストルズはスタジオで練習を重ね、1975年11月、ロンドンのセント・マーチンズ美術学校で初ライブを行いました。
会場とのつながりを作ったのは、同校に通っていたグレン・マトロックです。
対バンはバズーカ・ジョーで、後にアダム・アントとして知られる人物も関係していました。
ピストルズは対バンの機材を使用して演奏しましたが、非常に音が大きく、機材を壊されると判断したバズーカ・ジョー側が途中で電源を切ったといわれています。
両バンドのメンバーによる口論や小競り合いも起きました。
この最初のライブから、セックス・ピストルズは音楽だけでなく、騒動そのものによって注目を集めるバンドでした。
初期には、正式に出演依頼を受けていない会場へ「予約されている」と言って押しかけ、勝手に演奏したこともあったといいます。
演奏を嫌って観客が帰ることもあれば、メンバー同士の口論、観客との衝突、物が飛び交う騒ぎも起きました。
しかし、その危険な雰囲気と圧倒的な音の力に引かれる若者も少しずつ増えていきます。
1975~1976年|既存のロックへの反発
当時のイギリスでは、長い曲、高度な演奏技術、大がかりな舞台を特徴とするプログレッシブロックや、大物バンドによるスタジアム公演が人気を集めていました。
しかし、不況や失業に直面していた労働者階級の若者にとって、それらは自分たちの現実とは遠い存在になっていました。
一方、セックス・ピストルズの曲は短く、単純で、強烈でした。
歌詞で扱われたのは、失業、退屈、怒り、階級社会、政治、王室、そして「未来がない」という感覚です。
ロットンは、観客から愛されようとする従来のロックスターとは正反対でした。
観客をあおり、侮辱し、わざと怒らせ、気に入られようとしませんでした。この「反フロントマン」とも呼べる態度は、当時の音楽ファンに大きな衝撃を与えます。
セックス・ピストルズを見た若者の中には、「自分にもバンドができる」と考え、実際に楽器を手にする者が続出しました。
彼らの最大の影響は、楽曲そのものだけではなく、音楽を作る側へ人々を動かしたことにあります。
1976年|EMIとの契約
ライブの評判が急速に広がると、複数のレコード会社がセックス・ピストルズに注目するようになります。
最終的にバンドは、大手レコード会社EMIと契約しました。
EMIはセックス・ピストルズの話題性と若者への影響力に期待しましたが、同時に彼らの行動を完全には理解していませんでした。
バンドはライブの音をレコードへ収めるため、音響担当だったデイヴ・グッドマンとレコーディングを行います。
しかし、何度も演奏を繰り返すうちに曲は速くなり、バンドが求めていた重さや勢いが失われていきました。
そこでロキシー・ミュージックなどを手がけたプロデューサー、クリス・トーマスを迎え、改めて録音します。
ジョーンズのギターを何層も重ねた分厚い音と、クックの安定したドラムによって、荒々しさと完成度を両立したサウンドが作られました。
1976年|「Anarchy in the U.K.」でデビュー
1976年11月26日、デビューシングル「Anarchy in the U.K.」が発売されました。
曲の冒頭でロットンは、自分を「反キリスト」「アナーキスト」だと宣言します。
タイトルにある「アナーキー」は、厳密な政治思想を説明するものというより、目の前の社会秩序を否定し、混乱を起こそうとする感情の表現でした。
ロットンの歌詞は、研究した政治理論を整理したものではありません。本人が社会に対して感じていた怒りや違和感を、そのまま鋭い言葉へ変えたものでした。
同曲は全英シングルチャート38位を記録し、イギリス国内で5万枚以上を売り上げます。
数字だけを見れば大ヒットではありません。しかし、ラジオから流れてきた曲を聴き、それまでの音楽とはまったく違うと衝撃を受けた若者が各地に現れました。
1976年|英国中を騒がせたビル・グランディ事件
セックス・ピストルズを一夜にして全国区へ押し上げたのが、1976年12月のテレビ出演です。
本来出演する予定だったクイーンがキャンセルしたため、セックス・ピストルズが急きょ代役として生放送番組に出演しました。
司会者はビル・グランディでした。
グランディは挑発的な質問を繰り返し、ロットンが小声で口にした放送禁止用語を、もう一度言うように迫ります。
さらにグランディが、同行していた女性に対して挑発的な態度を取ったため、酒を飲んでいたスティーヴ・ジョーンズが激怒しました。
ジョーンズは生放送中に放送禁止用語を連発し、グランディと罵り合います。
当時のイギリスのテレビは現在よりもはるかに保守的でした。夕方の生放送でこのような言葉が使われたことは、大事件として報じられます。
翌日の新聞はセックス・ピストルズを激しく非難し、彼らは「社会の敵」「若者を堕落させる危険な存在」として知られるようになりました。
この事件によって予定されていた公演の多くが中止され、パンクファンが街中で襲撃される事件も増えていきます。
一方、悪名が広がるほど、セックス・ピストルズに興味を持つ若者も増えました。
1977年|EMI、A&Mとの契約が相次いで終了
グランディ事件後もメンバーの騒動は収まらず、EMIはセックス・ピストルズとの契約を解除しました。
バンドは契約解除に伴う違約金を受け取ります。
その後、A&Mレコードと契約しましたが、こちらも短期間で終了しました。
レコード会社側にとって、セックス・ピストルズの話題性は魅力的でした。しかし、暴力沙汰、過激な発言、周囲からの抗議、メンバーの制御不能な行動は大きなリスクでもありました。
結果としてバンドは、短期間のうちに大手レコード会社から契約金や違約金を受け取りながら、契約解除を繰り返します。
最終的に、当時は新興レーベルだったヴァージン・レコードと契約しました。
1977年|グレン・マトロックの脱退
レコード会社との問題が続くなか、バンド内部でも大きな亀裂が生じていました。
グレン・マトロックとジョニー・ロットンは、性格も音楽的な考え方も大きく異なっていました。
マトロックは、ビートルズやスモール・フェイセスなどのメロディーを重視した音楽を好み、曲を完成させるためにはある程度の構成やポップ性が必要だと考えていました。
一方、ロットンは、バンドが親しみやすいポップグループへ向かうことを警戒していました。
表向きには、マトロックが「ビートルズのファンだったから追放された」と発表されます。しかし実際には、ロットンやマクラーレンとの対立、メンバー間の派閥、活動に楽しさを感じられなくなったことなど、複数の理由が重なっていたと考えられます。
マトロックは「Pretty Vacant」をはじめ、初期の代表曲作りに大きく貢献しました。
彼が脱退した時点で、唯一のアルバムに収録される楽曲の大部分はすでに作られていました。
そのため、マトロックの脱退は単なるベーシスト交代ではなく、セックス・ピストルズが新しい曲を生み出す力を失い始めた出来事でもありました。
1977年|シド・ヴィシャスの加入
マトロックの後任として加入したのが、ジョニー・ロットンの友人だったシド・ヴィシャスです。
シドはセックス・ピストルズの熱心なファンで、ロンドンのパンクシーンでも知られた存在でした。
細い体、逆立てた髪、革のジャケット、南京錠のネックレスなど、その外見はパンクのイメージそのものでした。
ロットンにとってシドは、バンド内で自分の味方になってくれる人物でもありました。
しかし、シドはベーシストとして十分な演奏経験を持っていませんでした。ライブではジョーンズのギターを大音量にしてベースの音を隠すこともあり、実際にシドのベース音を切っていた公演もあったとされています。
唯一のアルバムでは、スティーヴ・ジョーンズがベースの大部分を担当しました。シドの演奏は「Bodies」の一部に入っているとされますが、ミックスの中ではほとんど聞き取れません。
シドの加入によって、セックス・ピストルズの見た目はさらに強烈になりました。
一方で、音楽を作るバンドから、マクラーレンが求めるスキャンダラスな「パンクの漫画」のような存在へ変化したともいえます。
1977年|「God Save the Queen」で王室を挑発
1977年5月、「God Save the Queen」が発売されました。
イギリス国歌と同じ題名ですが、王室をたたえる内容ではありません。
歌詞では王室を「ファシスト体制」と表現し、「イングランドに未来はない」と歌いました。
同年は、エリザベス2世の即位25周年を祝うシルバー・ジュビリーの年でした。イギリス全体が祝賀ムードに包まれるなか、セックス・ピストルズは正反対のメッセージを発表したのです。
同曲は多くの放送局で放送禁止となり、レコード店でも販売を断られました。
それでも売り上げを伸ばし、公式の全英シングルチャートでは2位を記録します。
実際には最も売れた曲だったにもかかわらず、政治的な配慮によって1位を与えられなかったという説も広まりました。
チャート表で曲名が空白にされたという逸話も残っています。
さらにバンドは、祝典に合わせてテムズ川に船を浮かべ、「God Save the Queen」を大音量で演奏するゲリラライブを行いました。
船は警察に止められ、マクラーレンをはじめとする関係者が拘束されます。
「God Save the Queen」は、単に女王個人を攻撃した曲ではありません。
華やかな祝典の裏側で、失業や貧困に苦しんでいた若者や労働者階級の現実を無視する社会全体への批判でした。
1977年|メンバーとパンクファンへの襲撃
「God Save the Queen」の発表後、セックス・ピストルズは「英国そのものを攻撃する存在」として激しく非難されました。
ジョニー・ロットンは街中でナイフを持った集団に襲われ、負傷します。ポール・クックも別の場所で暴行を受けました。
当時はパンクスとテディボーイ、ロカビリー系の若者との対立も激しく、パンクファッションをしているだけで襲われることもありました。
バンドが投げかけた言葉は、単なる音楽上の話題を超え、国民性、王室、階級、英国人としての価値観をめぐる社会的な対立に発展していったのです。
1977年|唯一のアルバム『勝手にしやがれ!!』
1977年10月28日、セックス・ピストルズは最初にして最後のオリジナルアルバム『Never Mind the Bollocks, Here’s the Sex Pistols』を発売しました。
日本では『勝手にしやがれ!!』の邦題で知られています。
主な収録曲は次のとおりです。
- 「Holidays in the Sun」
- 「Bodies」
- 「No Feelings」
- 「Liar」
- 「God Save the Queen」
- 「Problems」
- 「Seventeen」
- 「Anarchy in the U.K.」
- 「Submission」
- 「Pretty Vacant」
- 「New York」
- 「E.M.I.」
アルバムは全英1位を記録しました。
セックス・ピストルズには「演奏できないバンド」というイメージがあります。しかし、実際のアルバムは非常に緻密に制作されています。
スティーヴ・ジョーンズは、ギターを何度も重ねて分厚い壁のような音を作りました。さらにベースの大部分も担当しています。
ポール・クックのドラムは派手に崩れることなく、重いギターを正確に支えました。
そこへグレン・マトロックが作った覚えやすいメロディーと、ロットンの独特な声が加わっています。
シンプルに聞こえる一方、実際には強力なリズム、重厚なギター、親しみやすいメロディーを持つ、完成度の高いロックアルバムでした。
1978年|崩壊を早めたアメリカツアー
1978年1月、セックス・ピストルズは初のアメリカツアーを開始しました。
アメリカには、ニューヨークやロサンゼルス、サンフランシスコなど、すでにパンクを理解する観客がいる都市がありました。
しかし、マクラーレンは一般的なツアー日程を避け、アメリカ南部の保守的な地域を中心に公演を組みました。
パンクに理解のある観客の前で成功するより、敵意を向ける観客の前で騒動を起こした方が話題になると考えたためです。
メンバーは、見知らぬ土地で罵声を浴びせられ、ときには身の危険を感じながら公演を続けました。
シドはすでに深刻な薬物依存に陥っていました。恋人ナンシー・スパンゲンと離れていることでも不安定になり、演奏以前にステージへ立たせること自体が困難な状態でした。
それでもジョーンズとクックは演奏を支え、バンドは最後まで公演を成立させています。
アメリカツアーの映像を見ると、ベースがほとんど聞こえない状態でも、ジョーンズとクックによって強力なロックバンドとして成り立っていたことが分かります。
1978年|「騙された気分になったことはないか」
ツアーが進むにつれ、ジョニー・ロットンは孤立していきました。
自分が加入を後押ししたシドは、ナンシーと薬物の問題によって別人のようになっていました。
ロットンとマクラーレンの関係も修復不能な状態に達していました。ロットンは、マクラーレンがバンドを守るのではなく、騒動を起こすために危険な状況へ追い込んでいると感じていました。
1978年1月14日、サンフランシスコのウィンターランドでツアー最終公演が行われます。
最後に演奏したのは、ザ・ストゥージズの「No Fun」でした。
曲が終わると、ロットンは観客へ向かって、笑いながらこう問いかけます。
「騙された気分になったことはないか」
そして、そのままステージを去りました。
この言葉は観客だけでなく、マクラーレン、音楽業界、そしてセックス・ピストルズという仕組みそのものへ向けられたものだったと考えられます。
翌日、ロットンはバンドを脱退しました。
結成からわずか数年で、セックス・ピストルズは事実上の解散を迎えます。
1978年|ロットン脱退後の活動
ジョニー・ロットンが脱退した後も、マクラーレンはセックス・ピストルズの名前を使った活動を続けました。
スティーヴ・ジョーンズとポール・クックは、ブラジルへ渡り、逃亡中だったイギリスの列車強盗犯ロナルド・ビッグズと「No One Is Innocent」を録音します。
また、エドワード・チューダー=ポールなど複数の人物が、映画『ザ・グレート・ロックンロール・スウィンドル』に参加しました。
ただし、チューダー=ポールがロットンの正式な後任ボーカルになる予定だったという情報について、ポール・クックは否定しています。
映画のために起用された人物であり、新生セックス・ピストルズのボーカリストとして検討されていたわけではなかったと説明しています。
ロットンを失い、シドも演奏できない状態となった時点で、セックス・ピストルズはバンドとして機能していませんでした。
その後の活動は、マクラーレンによる映画と話題作りのためのプロジェクトという性格が強くなっていきます。
1978~1979年|シドとナンシーの悲劇
シド・ヴィシャスは、アメリカ人女性ナンシー・スパンゲンと交際していました。
シドは加入前、明るく、冗談好きで、少し不器用な若者だったといわれています。
しかし、ナンシーとの関係やヘロインの影響によって、次第に心身を壊していきました。
1978年10月、ニューヨークのチェルシー・ホテルの一室で、ナンシーが刺されて死亡しているのが発見されます。
凶器とみられるナイフがシドの所有物だったことから、シドは殺人容疑で逮捕されました。
しかし、当時のシドは薬物の影響によって記憶が曖昧で、事件の真相は分からないままです。
レコード会社が保釈金を支払い、シドは一時的に釈放されました。
そして1979年2月2日、シドはヘロインの過剰摂取によって死亡します。21歳でした。
シドは、現在でもパンクを象徴する人物として扱われています。
ただし、セックス・ピストルズの音楽を作った人物というより、パンクの破滅的なイメージを体現した人物です。
資料の中でも、シドをパンク全体の代表とすることには疑問が示されています。
パンクには、若者が自分で音楽や芸術を始められるという知性と解放感がありました。それを薬物と自己破壊だけの物語に縮小してしまうと、パンクが持っていた本来の可能性を見失うことになります。
1978年|ジョン・ライドンとPublic Image Ltd
セックス・ピストルズを脱退したジョン・ライドンは、すぐにPublic Image Ltd、通称PiLを結成しました。
PiLの音楽は、ピストルズ時代の単純で攻撃的なパンクとは異なり、ダブ、実験音楽、ニューウェイブなどを取り入れた前衛的なものでした。
ライドンは、同じパンクサウンドを繰り返して人気を維持する道を選びませんでした。
ピストルズで示した反骨精神を、より自由で実験的な音楽へ発展させようとしたのです。
PiLは、後のポストパンクやオルタナティブロックに大きな影響を与えました。
セックス・ピストルズが既存のロックを破壊したバンドだとすれば、PiLはその破壊後に何を作るのかを示したバンドだったといえます。
1979~1986年|マクラーレンとの法廷闘争
解散後も、ジョン・ライドンとマルコム・マクラーレンの対立は続きました。
マクラーレンは、セックス・ピストルズの成功は自分が計画し、メンバーを操った結果であるかのように描きました。
映画『ザ・グレート・ロックンロール・スウィンドル』も、マクラーレン側の視点からバンドの歴史を描いた作品でした。
一方、メンバー側はバンド名、楽曲、映像作品、マスター音源、未払い収益などの権利を十分に与えられていませんでした。
1979年、ライドンらはマクラーレン側を相手に訴訟を起こします。
法廷闘争は約7年間続きました。
1986年、ロンドンの高等法院における判断によって、バンドに関係する権利や未払い収益がメンバー側へ戻されます。
この勝利によって、ライドンらは「マクラーレンが作った操り人形」という立場から抜け出し、自分たちの作品を取り戻しました。
1996年|オリジナルメンバーで再結成
1996年、ジョニー・ロットン、スティーヴ・ジョーンズ、グレン・マトロック、ポール・クックの4人が再結成しました。
再結成の理由について、メンバーは「俺たちには共通の目的ができた。それは金だ」と公言します。
一般的な再結成バンドが「友情」や「ファンのため」と説明するなか、金のためだと隠さず語る姿勢もセックス・ピストルズらしいものでした。
再結成ツアーには「Filthy Lucre Tour」という名前が付けられました。「汚い金」という意味を含む、自虐的で皮肉な名称です。
同年にはライブアルバム『Filthy Lucre Live』も発売されました。日本では『勝手に来やがれ』の邦題で知られています。
来日公演は約1か月にわたって18公演が行われました。再結成した海外ロックバンドとしては、異例の規模でした。
この再結成では、シドではなく初代ベーシストのグレン・マトロックが戻っています。
セックス・ピストルズの代表曲を音楽的に成立させるためには、マトロックが必要だったことを改めて示す編成でした。
2000年代|ドキュメンタリーと断続的な再結成
マクラーレン主導の『ザ・グレート・ロックンロール・スウィンドル』に対し、メンバー側は内容が実際の歴史と大きく異なると批判していました。
その後、メンバーの証言を中心に構成されたドキュメンタリー映画『The Filth and the Fury』が制作されます。
同作では、マクラーレンの計画だけでなく、実際に演奏し、世間から攻撃され、内部対立のなかで崩壊していったメンバー側の視点から歴史が語られました。
セックス・ピストルズは2002年、2003年にも再び集まり、イギリスやアメリカで公演を行いました。
2007年から2008年にかけても再結成ツアーを開催し、2008年には日本のロックフェス「サマーソニック」に出演しています。
その後、再び活動を停止しました。
2006年|ロックの殿堂入りを拒否
2006年、セックス・ピストルズはロックの殿堂入りを果たしました。
しかし、メンバーは授賞式に出席しませんでした。
公式サイトにはジョニー・ロットンを中心とする直筆メッセージが掲載され、ロックの殿堂と出席に必要な高額費用を激しく批判します。
そして、自分たちは殿堂という制度に組み込まれないことこそ、本当のセックス・ピストルズらしさだと主張しました。
殿堂側はこの拒否に怒るのではなく、「これこそがロックンロールだ」と評価しました。
若い頃に王室やレコード会社を挑発したバンドが、後に権威ある存在として評価されても、その権威を拒否したのです。
2024年|フランク・カーターを迎えた新しい公演
2024年、スティーヴ・ジョーンズ、ポール・クック、グレン・マトロックは、新しいフロントマンとしてフランク・カーターを迎えて公演を行いました。
ジョン・ライドンは参加していません。
ライドンは、この編成をセックス・ピストルズの曲を再現する「カラオケ」だと批判し、カーターについても「ジョニー・ロットンではない」と発言しています。
セックス・ピストルズの名前と楽曲を誰がどのように継承するのかという問題は、解散から長い時間が過ぎても、メンバー間の対立として残り続けています。
セックス・ピストルズは本当に演奏が下手だったのか
セックス・ピストルズには「楽器をまともに弾けない若者が勢いだけで演奏していた」というイメージがあります。
しかし、これはシド・ヴィシャスの印象がバンド全体へ広がった部分が大きいと考えられます。
確かにシドは、ベーシストとして十分な演奏力を持っていませんでした。
一方、初期メンバーの演奏は決して単純な素人演奏ではありません。
ポール・クックは、曲を崩さずに支えられる安定したドラマーでした。
スティーヴ・ジョーンズは、複雑なソロよりも、コードを分厚く重ねることで圧倒的な音圧を作りました。唯一のアルバムではギターだけでなく、ベースの大部分も担当しています。
グレン・マトロックは、バンドの荒々しいアイデアをポップで覚えやすい楽曲へまとめる作曲能力を持っていました。
そしてジョニー・ロットンは、一般的な美声ではありませんでしたが、歌詞の意味を一瞬で伝える強烈な声と表現力を備えていました。
セックス・ピストルズの音楽は「簡単だから価値がある」のではありません。
必要のないものを削り、短い時間で最大の衝撃を与えるように作られていたのです。
セックス・ピストルズはマクラーレンが作った操り人形だったのか
セックス・ピストルズをめぐっては、マルコム・マクラーレンがすべてを計画した「作られたバンド」だったという見方があります。
確かにマクラーレンは、バンド結成、レコード会社との契約、ファッション、報道戦略、テムズ川の船上ライブ、アメリカツアーなどに大きく関わりました。
騒動を宣伝へ変える能力を持ち、セックス・ピストルズを短期間で世界的な話題にした功績は無視できません。
しかし、バンドの音楽や言葉までマクラーレンが作ったわけではありません。
マトロック、ジョーンズ、クックは、マクラーレンと出会う前からバンド活動を始めていました。
ロットンの歌詞も、本人の幼少期、貧困、病気、階級社会への違和感から生まれたものです。
マクラーレンは、若者たちの中にすでに存在していた怒りと才能を見つけ、最大限に拡大して世間へ提示した人物だと考えられます。
ただし、話題作りを優先するあまり、メンバーの安全や人間関係、音楽的な将来を十分に守りませんでした。
セックス・ピストルズを有名にした戦略が、同時にバンドを短命にしたともいえるのです。
セックス・ピストルズは何が革新的だったのか
セックス・ピストルズ以前にも、ザ・ストゥージズ、ニューヨーク・ドールズ、ラモーンズ、ダムドなど、パンクにつながる音楽は存在していました。
そのため、セックス・ピストルズだけがパンクを発明したわけではありません。
しかし、パンクを一部の音楽ファンだけのものから、社会全体を揺さぶる現象へ変えた功績は非常に大きいといえます。
1.観客に好かれようとしないフロントマンを生んだ
従来のロックスターは、観客の注目や愛情を求める存在でした。
ジョニー・ロットンは、その関係を逆転させました。
観客を侮辱し、挑発し、自分を嫌わせることさえ恐れませんでした。
この「反フロントマン」としての姿勢は、後のパンクやオルタナティブロックのボーカリストに大きな影響を与えます。
2.若者の不満を短い曲に変えた
セックス・ピストルズの曲は、複雑な演奏技術を見せるためのものではありませんでした。
不況、失業、退屈、階級社会、王室への疑問など、当時の若者が感じていた不満を、短く、直接的な言葉で表現しました。
「Anarchy in the U.K.」や「God Save the Queen」は、政治的に正しい答えを示す曲ではありません。
誰も公の場で言おうとしなかった怒りを、音楽として爆発させた曲でした。
3.音楽とファッションを結びつけた
破れた服、安全ピン、ボンデージ、挑発的な文字、逆立てた髪など、セックス・ピストルズの視覚的なイメージは音楽と切り離せません。
その中心にいたのがヴィヴィアン・ウエストウッドでした。
ファッションは単なる衣装ではなく、既存の価値観へ反抗するメッセージとして機能しました。
セックス・ピストルズによって、パンクは音だけでなく、一目で認識できる文化になったのです。
4.スキャンダルをメディア戦略に変えた
マクラーレンは、放送禁止、契約解除、逮捕、公演中止といった不祥事を、すべて宣伝へ変えていきました。
レコードがラジオで流れなくても、新聞が批判すればバンド名は広がります。
公演が中止されれば、「社会が恐れるほど危険なバンド」という印象が強くなります。
この手法は、後のロック、ヒップホップ、ポップカルチャーにおける炎上型の宣伝にもつながる考え方でした。
5.「自分にもできる」と若者に思わせた
セックス・ピストルズが残した最大の影響は、完璧な演奏を見せたことではありません。
彼らを見た若者に「自分もバンドを始めてよい」と思わせたことです。
高価な機材や高度な教育がなくても、自分の怒り、自分の言葉、自分の服装で表現できる。
この考え方から、数多くのパンク、ポストパンク、インディーズバンドが生まれました。
パンクのDIY精神は、音楽だけでなく、雑誌、デザイン、写真、映像、ファッションなどにも広がっていきました。
まとめ|セックス・ピストルズはロックの価値観を破壊した
セックス・ピストルズの歴史は、長期間活動した成功バンドの物語ではありません。
ロンドンの小さなブティックから誕生し、「Anarchy in the U.K.」で社会秩序を挑発し、「God Save the Queen」で王室を批判し、唯一のアルバムを残した直後にアメリカツアーで空中分解しました。
グレン・マトロックの脱退によって作曲の中心を失い、シド・ヴィシャスの加入によってバンドのイメージは強烈になりましたが、音楽的な安定は崩れていきました。
さらにマクラーレンの過激な宣伝戦略、ロットンの孤立、シドの薬物依存が重なり、結成から約2年半で実質的な解散を迎えます。
しかし、活動期間の短さはセックス・ピストルズの価値を小さくしませんでした。
むしろ、短期間で社会へ衝撃を与え、成功の頂点で崩壊したからこそ、彼らはパンクの伝説になりました。
セックス・ピストルズが残した最大の遺産は、シド・ヴィシャスの破滅的なイメージや、放送禁止用語を使ったスキャンダルだけではありません。
既存のロックスターのようにならなくてもよい。高度な技術や社会からの許可がなくても、自分の怒りを自分の言葉で表現してよい――。
その考え方を、音楽、ファッション、態度、そして生き方を通じて世界中の若者へ示したことこそが、セックス・ピストルズの本質なのです。
https://www.youtube.com/watch?v=zUNAr4Uj1xM
https://www.youtube.com/watch?v=K4T40WGP2og
https://www.youtube.com/watch?v=etIeXdZ5MVM
https://www.youtube.com/watch?v=6s4pLKQgUVQ
https://www.youtube.com/watch?v=AGpWj0iKmns
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