革ジャン、逆立てた黒髪、南京錠のネックレス、傷だらけの体、そして観客をにらみつけながらベースを構える姿――。
シド・ヴィシャスは、セックス・ピストルズの2代目ベーシストとして活動し、パンクロックを象徴する人物となりました。
しかし、シドはセックス・ピストルズのオリジナルメンバーではありません。バンドの代表曲が作られた後に加入し、唯一のオリジナルアルバムでもほとんど演奏していませんでした。
それにもかかわらず、現在ではジョニー・ロットンと並び、セックス・ピストルズを代表する存在として記憶されています。
その理由は演奏技術ではなく、シド自身がパンクの危険性、反抗、混乱、そして自己破壊を体現していたからです。
一方、その人生は決して自由で華やかなものではありませんでした。不安定な少年時代、薬物依存、恋人ナンシー・スパンゲンとの破滅的な関係、殺人容疑での逮捕、そして21歳での死――。
本記事では、シド・ヴィシャスの生涯を、セックス・ピストルズ加入前からナンシーの死、本人の急死、その後に残された影響まで時系列に沿って紹介します。
シド・ヴィシャスとはどのような人物だったのか
シド・ヴィシャスは、1957年にロンドンで生まれたイギリスのミュージシャンです。
本名はジョン・サイモン・リッチーで、ジョン・ビヴァリーの名前を使用していた時期もありました。
1977年、グレン・マトロックの後任としてセックス・ピストルズへ加入します。
担当はベースでしたが、加入時点では十分な演奏技術を持っていませんでした。スタジオアルバムでも、実際のベースの大部分はギターのスティーヴ・ジョーンズが担当しています。
しかし、細い体、逆立てた髪、革のジャケット、南京錠のネックレス、挑発的な態度は、当時生まれつつあったパンクのイメージに完全に合致していました。
シドは楽曲を作った中心人物ではありません。
それでも、ステージ上の姿と破滅的な生き方によって、セックス・ピストルズだけでなく、パンクそのものを象徴する存在になりました。
シド・ヴィシャスの生涯を簡単に整理
| 年代 | 主な出来事 |
|---|---|
| 1957年 | ロンドンで誕生 |
| 1970年代前半 | ジョン・ライドンと親しくなり、ロンドンの若者文化に触れる |
| 1976年 | ロンドンの初期パンクシーンで知られる存在になる |
| 1977年 | グレン・マトロックの後任としてセックス・ピストルズに加入 |
| 1977年 | 「God Save the Queen」発表時のバンド活動に参加 |
| 1977年 | ナンシー・スパンゲンと交際を始め、薬物依存が深刻化 |
| 1978年 | セックス・ピストルズのアメリカツアーに参加 |
| 1978年 | ジョニー・ロットン脱退によりバンドが事実上解散 |
| 1978年 | ソロ活動を始め、「My Way」などを録音 |
| 1978年10月 | ナンシーがチェルシー・ホテルで死亡 |
| 1978年10月 | ナンシー殺害容疑で逮捕 |
| 1979年2月 | ヘロインの過剰摂取により21歳で死亡 |
1957~1970年代前半|不安定な少年時代
シド・ヴィシャスは、1957年5月10日にロンドンで生まれました。
少年時代の家庭環境は安定したものではなく、複雑な状況のなかで成長したとされています。
ロンドンへ戻った後も生活は落ち着かず、シドは学校や一般的な社会生活になじめない若者になっていきました。
この時期に親しくなったのが、後にセックス・ピストルズのボーカルとなるジョン・ライドンです。
ライドン自身も、貧困、病気、厳格な学校教育などを経験し、社会や大人の権威に強い反発心を抱いていました。
2人はロンドンのクラブに通い、音楽やファッションを通じて、自分たちと同じように社会からはみ出した若者と交流します。
資料では、ライドンとシドがロンドンのハムステッド周辺にある空き家へ入り込み、将来への不安を気にせず、夜ごとにクラブへ出かけていた様子も語られています。
この頃のシドは、後年のような薬物と暴力に支配された人物ではありませんでした。
ライドンによると、ピストルズ加入前のシドには、間の抜けたところや陽気さがあり、鋭い冗談を言う人物でもあったといいます。
後に広まった「生まれつき危険で暴力的だった」というイメージだけでは、本来のシドを正確に捉えられません。
1970年代半ば|ロンドンのパンクシーンへ
1970年代半ばのロンドンでは、既存のロックに反発する新しい若者文化が生まれようとしていました。
当時の大物ロックバンドは、高度な演奏技術、長い楽曲、大規模な舞台装置を特徴としていました。
しかし、不況や失業に直面していた労働者階級の若者にとって、その音楽は自分たちの生活から遠いものになっていました。
そのなかで登場したのが、短く、単純で、攻撃的なパンクロックです。
シドは当初、ミュージシャンとしてではなく、ライブ会場に集まるパンクスの1人として知られていました。
演奏技術よりも、独特の服装、危険な雰囲気、予測できない行動によって注目を集めます。
マルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウエストウッドが経営していたブティック「SEX」周辺にも出入りし、初期のパンクシーンに深く関わっていきました。
この頃のロンドンでは、バンドのメンバーと観客の境界は現在ほど明確ではありませんでした。
ライブを見ていた若者が翌日に楽器を持ち、自分のバンドを始めることも珍しくありません。
シドもまた、観客側からステージ側へ移っていった若者の1人でした。
1977年|グレン・マトロックの脱退
セックス・ピストルズの初代ベーシストは、グレン・マトロックです。
マトロックは単なるベーシストではなく、バンドの主要作曲者でした。
「Pretty Vacant」をはじめとする代表曲の制作に関わり、ジョニー・ロットン、スティーヴ・ジョーンズ、ポール・クックが持ち寄ったアイデアを、実際の楽曲へまとめる役割を果たしていました。
しかし、マトロックとロットンは性格も音楽的な考え方も大きく異なっていました。
マトロックはビートルズやスモール・フェイセスなどを好み、メロディーや曲の構成を重視していました。
一方、ロットンはバンドが親しみやすいポップグループへ向かうことを嫌っていました。
さらに、マトロックとマネージャーのマルコム・マクラーレンとの関係も悪化します。
表向きには「ビートルズが好きだったから追放された」と説明されましたが、実際にはメンバー間の対立や派閥、バンド活動への疲労など、複数の理由が重なっていたと考えられます。
1977年、マトロックはセックス・ピストルズを離れました。
この脱退によって、バンドは優れたベーシストだけでなく、楽曲を完成させられる作曲者を失うことになります。
1977年|シド・ヴィシャスが加入
グレン・マトロックの後任として選ばれたのが、ジョニー・ロットンの友人だったシド・ヴィシャスです。
当時のシドはセックス・ピストルズの熱心なファンで、ロンドンのパンクシーンでも目立つ存在でした。
ロットンにとってシドは、自分の友人であり、バンド内で味方になってくれる人物でもありました。
ロットンとマトロックの関係が悪化するなか、シドを加入させることで、自分の発言力を強めようとする思惑もあったとされています。
しかし、シドは加入時点でベースを十分に弾けませんでした。
それでもマクラーレンは、シドの外見と存在感に大きな価値を見いだしていました。
マトロックがバンドの音楽を作る人物だったとすれば、シドはバンドの危険なイメージを完成させる人物だったのです。
この人選によって、セックス・ピストルズは音楽的には弱体化します。
一方、視覚的には、それまで以上に「パンクらしいバンド」になりました。
シドは本当にベースを弾けなかったのか
シド・ヴィシャスについて、最もよく語られるのが「ベースを弾けなかった」という話です。
結論からいえば、セックス・ピストルズ加入時のシドは、プロのバンドで安定して演奏できる技術を持っていませんでした。
ライブでは、ギターのスティーヴ・ジョーンズが自分の音をさらに大きくし、シドの不安定な演奏を覆い隠すことがありました。
公演によっては、シドのベースを客席に聞こえない状態にしていたともいわれています。
唯一のオリジナルアルバム『Never Mind the Bollocks, Here’s the Sex Pistols』でも、ベースの大部分をスティーヴ・ジョーンズが演奏しました。
ドラマーのポール・クックによると、シドの演奏は「Bodies」に一部収録されているものの、音の中に埋もれているとされています。
そのため、同アルバムの完成度をシドの演奏力と結びつけることはできません。
ただし、シドには一般的な演奏能力とは別の力がありました。
ステージに立った瞬間に観客の目を引きつけ、危険なことが起こりそうだと思わせる存在感です。
演奏家としては不十分でも、パンクのアイコンとしては圧倒的でした。
1977年|「God Save the Queen」の時代
シドが加入した1977年、セックス・ピストルズは「God Save the Queen」を発表しました。
この曲は、エリザベス2世の即位25周年を祝うシルバー・ジュビリーの時期に発売されました。
英国国歌と同じ題名でありながら、歌詞では王室を「ファシスト体制」と表現し、「イングランドに未来はない」と歌っています。
多くの放送局で放送禁止となり、レコード店でも販売を拒否されましたが、公式の全英シングルチャートでは2位を記録しました。
バンドは祝典に合わせ、テムズ川の船上で同曲を演奏するゲリラライブを行います。
警察が船を止め、マルコム・マクラーレンらが拘束される騒ぎとなりました。
シドはこの時期のバンド活動に参加し、セックス・ピストルズの危険な印象をさらに強めていきます。
ただし、楽曲自体はマトロック在籍中に「No Future」と呼ばれていた時期から演奏されていました。
つまり、シドは「God Save the Queen」のイメージを体現したメンバーではありますが、曲を生み出した中心人物ではありません。
1977年|ナンシー・スパンゲンとの出会い
シドの人生を大きく変えたのが、アメリカ人女性ナンシー・スパンゲンとの出会いです。
ナンシーはニューヨークのロックシーンに出入りしており、ロンドンへ渡ってきました。
資料では、ナンシーが当初、ニューヨーク・ドールズやハートブレイカーズで活動したドラマー、ジェリー・ノーランに近づこうとしていたと語られています。
しかし、ノーランはナンシーを危険な人物だと考えて距離を置き、その後、ナンシーはシドと親しくなりました。
シドにとって、ナンシーは本格的に愛した最初の女性だったともいわれています。
不安定な環境で育ち、人との安定した関係を築くことが苦手だったシドは、ナンシーへ急速にのめり込んでいきました。
2人の関係は非常に強いものでしたが、同時に薬物によって支配されていきます。
ナンシーとの交際が始まると、シドのヘロイン依存は深刻化しました。
かつての陽気で冗談好きな若者は、次第にやせ細り、周囲との会話も困難な状態になっていきます。
資料では、ピストルズ加入前のシドと、ナンシーと出会った後のシドは、ほとんど別人のようだったと証言されています。
1977年|唯一のアルバムとシドの実際の役割
1977年10月、セックス・ピストルズは唯一のオリジナルアルバム『Never Mind the Bollocks, Here’s the Sex Pistols』を発売します。
日本では『勝手にしやがれ!!』の邦題で知られています。
アルバムは全英1位を記録し、パンクロックを代表する作品になりました。
ジャケットや宣伝写真にはシドが登場していますが、先述したように、レコーディングでの貢献は限られています。
代表曲の多くはマトロック在籍中に作られ、アルバムのベースの大部分はジョーンズが担当しました。
それでも、世間に広まったセックス・ピストルズの姿は、マトロックではなく、シドを含む4人でした。
これは、シドが音楽以上に強い視覚的な印象を残したことを示しています。
シドは、セックス・ピストルズのサウンドを作った人物ではありません。
しかし、セックス・ピストルズが危険で、制御不能で、今にも崩壊しそうなバンドに見えるうえで、決定的な役割を果たしました。
1978年|地獄のアメリカツアー
1978年1月、セックス・ピストルズはアメリカツアーを開始しました。
当初は、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコなど、パンクがある程度知られている都市を回る構想もありました。
しかし、マクラーレンはアメリカ南部を中心とした日程を組みます。
パンクに理解のある観客の前で演奏するより、保守的で敵対的な観客の前へバンドを送り込んだ方が、より大きな騒動を起こせると考えたためです。
メンバーは、初めて訪れる地域で罵声を浴びせられ、観客との衝突や暴力の危険にさらされました。
シドはすでにヘロインに依存し、精神的にも肉体的にも限界に近づいていました。
恋人ナンシーと離れていたことも、シドをさらに不安定にしたといわれています。
ベースの演奏は成立せず、公演によってはシドの音を消した状態で、ジョーンズとクックが演奏を支えました。
それでもシドは、観客と対立しながらステージに立ち続けます。
彼の姿は強烈でしたが、それは演出されたパンク像というより、現実に崩壊しつつある若者の姿でした。
1978年|セックス・ピストルズの空中分解
アメリカツアー中、バンド内の人間関係は完全に崩れていきました。
ジョニー・ロットンは、マクラーレンがバンドを守らず、騒動を起こすために危険な場所へ送り込んでいると感じていました。
ロットンがバンド内の味方として加入させたシドも、ナンシーと薬物の問題によって、まともに会話できる状態ではありませんでした。
スティーヴ・ジョーンズとポール・クックはロットンと距離を置き、ロットンはバンド内で孤立します。
1978年1月14日、サンフランシスコのウィンターランドでツアー最終公演が行われました。
最後の曲「No Fun」を演奏した後、ロットンは観客へ「騙された気分になったことはないか」と問いかけ、ステージを去ります。
翌日、ロットンは脱退しました。
これにより、セックス・ピストルズは事実上の解散を迎えます。
シドはバンドの一員として活動した期間が1年にも満たないうちに、所属するバンドと居場所を失いました。
1978年|マルコム・マクラーレンとソロ活動
ロットン脱退後も、マルコム・マクラーレンはセックス・ピストルズに関連する活動を続けました。
マクラーレンは、スティーヴ・ジョーンズとポール・クックに逃亡中の列車強盗犯ロナルド・ビッグズと録音させるなど、音楽よりも話題性を重視した企画を進めます。
シドには、フランク・シナトラで知られる「My Way」を歌わせました。
シド版「My Way」は、原曲のような人生を振り返る感動的な歌唱ではありません。
冒頭こそ比較的落ち着いていますが、途中から荒々しいパンクロックへ変化し、シドが観客を銃で撃つような演出も加えられました。
「My Way」は、シドの代表曲として広く知られるようになります。
ただし、これはシド本人が作った曲ではなく、マクラーレンの映画『ザ・グレート・ロックンロール・スウィンドル』のために用意された企画でした。
シドはソロ歌手としてライブ活動も行いましたが、薬物依存は改善しませんでした。
音楽家として自立する前に、マクラーレンが求める「破滅的なパンクスター」の役割を演じ続けることになったのです。
1978年|ニューヨークのチェルシー・ホテルへ
セックス・ピストルズの崩壊後、シドとナンシーはニューヨークへ移りました。
2人が滞在したのは、多くの芸術家やミュージシャンが利用したことで知られるチェルシー・ホテルです。
しかし、この頃の2人は薬物依存が深刻化し、生活は完全に乱れていました。
シドはソロ活動を続けようとしましたが、安定した演奏や生活を維持できる状態ではありませんでした。
ナンシーはシドの恋人であると同時に、マネージャーのような役割を果たそうとしていました。
一方で、2人の関係には口論や暴力もあり、互いを救うのではなく、依存を強め合う状態になっていたと考えられます。
1978年10月|ナンシー・スパンゲンの死
1978年10月12日、チェルシー・ホテルの客室の浴室で、ナンシー・スパンゲンが死亡しているのが発見されました。
ナンシーは腹部をナイフで刺されていました。
凶器とみられるナイフがシドの所有物だったことから、警察はシドを殺人容疑で逮捕します。
しかし、シドは薬物の影響によって記憶が混乱し、事件について一貫した説明ができませんでした。
自分が刺したと認めるような発言をしたとも、何も覚えていないと話したとも伝えられています。
当時、部屋には薬物や金銭を目的とする人物が出入りしていた可能性も指摘されました。
ただし、シドが裁判を迎える前に死亡したため、事件の真相が法廷で明らかになることはありませんでした。
現在でも「シドがナンシーを殺害した」とする見方と、「別の人物が関与した可能性がある」とする見方が残っています。
確実にいえるのは、ナンシーがシドの所有するナイフで刺され、同じ部屋にいたシドが容疑者として逮捕されたということです。
その先については、断定できない部分が多く残されています。
ナンシーを失った後のシド
ナンシーの死後、シドの精神状態はさらに悪化しました。
ナンシーはシドを薬物依存へ引き込んだ人物として批判されることがあります。
しかし、シドにとっては初めて深く愛した相手であり、自分を理解してくれる唯一の存在でもありました。
そのナンシーを突然失い、自分自身が殺人容疑をかけられたことで、シドは完全に行き場を失います。
レコード会社側が多額の保釈金を用意し、シドは一時的に釈放されました。
しかし、その後も暴力事件を起こして再び拘束され、薬物依存から抜け出せない状態が続きました。
裁判が始まれば、ナンシー殺害事件について厳しく追及されることになります。
シドは音楽活動を立て直すことも、ナンシーの死を受け入れることもできないまま、21歳で人生の最後を迎えました。
1979年2月|ヘロインの過剰摂取で死亡
1979年2月1日、シドは拘束先から釈放されました。
その夜、釈放を祝う集まりが開かれます。
シドは薬物から離れていた期間があったため、以前よりもヘロインへの耐性が低下していたと考えられます。
しかし、集まりのなかで再びヘロインを使用しました。
翌2月2日の朝、シドは反応のない状態で発見されます。
死因はヘロインの過剰摂取でした。21歳でした。
ナンシーの死から、わずか約4か月後のことです。
シドの死によって、ナンシー殺害事件の裁判は行われず、事件は真相が確定しないまま終わりました。
セックス・ピストルズ加入から約2年。
シドは、世界で最も有名なパンクスターの1人になり、殺人事件の容疑者となり、21歳で死亡しました。
シド・ヴィシャスは被害者だったのか
シドの人生を振り返ると、誰が彼を破滅させたのかという疑問が浮かびます。
ナンシーがシドを薬物依存へ引き込んだという見方があります。
マルコム・マクラーレンが、演奏能力よりもシドの危険なイメージを利用したという見方もあります。
また、ロットンが自分の味方を増やすため、演奏経験のない友人をセックス・ピストルズへ加入させたことも、結果的にはシドを危険な世界へ送り込むことになりました。
しかし、シド自身にも暴力や薬物使用を選択した責任があります。
そのため、シドを完全な被害者として描くことも、単純な悪人として描くことも適切ではありません。
不安定な環境で育った若者が、突然世界的な注目を浴び、十分な支援を受けないまま「危険なパンクスター」という役割を求められた結果、現実の自分と演じている人物の区別を失っていったと考えられます。
シド・ヴィシャスは本当にパンクの英雄なのか
シド・ヴィシャスは、現在でもパンクを象徴する存在です。
革のジャケット、逆立てた髪、南京錠のネックレス、傷だらけの体、挑発的な態度は、現在のパンクファッションにも影響を残しています。
「My Way」を歌う姿も、既存の名曲や価値観を破壊するパンクの精神を象徴する映像として語り継がれています。
しかし、シドをパンクの理想像とすることには問題もあります。
パンクが持っていたのは、薬物、暴力、自己破壊だけではありません。
高度な演奏技術や大手レコード会社の支援がなくても、自分で音楽を作り、雑誌を発行し、服をデザインし、自分の意見を表現できるという解放の思想がありました。
シドの物語だけをパンクの代表にすると、その創造性や知性が、薬物と破滅のイメージに置き換えられてしまいます。
初代ベーシストのグレン・マトロックが楽曲を作り、スティーヴ・ジョーンズとポール・クックがサウンドを支え、ジョニー・ロットンが社会への怒りを言葉にしました。
シドはその音楽を作った中心人物ではありません。
しかし、パンクが持つ危険性と矛盾が、人間の姿になって現れたような存在でした。
シド・ヴィシャスが残したもの
シドの音楽的な実績は多くありません。
セックス・ピストルズのオリジナルアルバムは1枚だけで、そのレコーディングにもほとんど参加していません。
ソロ活動も短く、代表曲「My Way」もカバー曲です。
それでも、シドの存在は数多くのミュージシャン、ファッション、映画、写真、文学に影響を与えました。
これは、音楽家としての評価というより、20世紀の若者文化を象徴する人物としての影響です。
社会に適応できなかった若者が、反抗的な外見によって一躍スターとなり、周囲が求める危険なイメージを演じ続け、その役割から抜け出せないまま死亡する――。
シドの人生には、ロックスターを消費する音楽業界やメディアの残酷さも表れています。
まとめ|シド・ヴィシャスはパンクを演じ、パンクに飲み込まれた
シド・ヴィシャスは、優れたベーシストとしてセックス・ピストルズに加入したわけではありません。
主要作曲者だったグレン・マトロックの後任として選ばれましたが、十分な演奏技術を持たず、唯一のアルバムでもベースの大部分をスティーヴ・ジョーンズが担当しました。
それでも、シドの外見と存在感はセックス・ピストルズの危険なイメージを完成させました。
シドは、パンクという言葉から多くの人が想像する反抗、混乱、暴力、破滅を、すべて体現する人物になったのです。
しかし、その裏側にいたのは、不安定な環境で育ち、人とのつながりを求めていた1人の若者でした。
ナンシー・スパンゲンと出会ったことで、シドは初めて深い愛情を知った一方、薬物依存を深刻化させます。
セックス・ピストルズの崩壊後、ナンシーはチェルシー・ホテルで死亡し、シドは殺人容疑で逮捕されました。
そして裁判を迎える前に、ヘロインの過剰摂取によって21歳で亡くなります。
シドがナンシーを殺害したのか、その真相は現在も確定していません。
ただし、シドとナンシーが薬物によって自分たちの生活を制御できなくなり、互いを救えないまま破滅へ向かったことは確かです。
シド・ヴィシャスが残した最大の遺産は、演奏や作曲ではありません。
若者の反抗を商品として消費する音楽業界の危うさ、危険なイメージと現実の自分を分けられなくなる恐ろしさ、そして薬物が才能や友情、愛情をどのように破壊するのかを、その短い人生によって示したことです。
シド・ヴィシャスは、パンクの英雄であると同時に、パンクの破滅的な側面に飲み込まれた悲劇の若者だったのです。
https://www.youtube.com/watch?v=zUNAr4Uj1xM
https://www.youtube.com/watch?v=K4T40WGP2og
https://www.youtube.com/watch?v=etIeXdZ5MVM
https://www.youtube.com/watch?v=6s4pLKQgUVQ
https://www.youtube.com/watch?v=AGpWj0iKmns
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