リッチー・ブラックモアといえば、ディープ・パープルとレインボーを率いた伝説的なギタリストです。
黒い衣装に身を包み、ステージではストラトキャスターを破壊し、気に入らないことがあればメンバーや主催者とも衝突する。「気難しい天才」「ロック界の黒魔術師」といった印象を持つ人も多いでしょう。
しかし、その人物像は破天荒という言葉だけでは説明できません。
若い頃は無線整備の仕事を学びながらセッションギタリストとして経験を積み、クラシック音楽とポップスの両方を愛し、晩年にはルネサンス音楽を演奏するようになりました。
ここでは、リッチーの音楽をより深く楽しむために知っておきたい豆知識を25項目紹介します。
1.本名はリチャード・ヒュー・ブラックモア
リッチー・ブラックモアの本名は、リチャード・ヒュー・ブラックモアです。
1945年4月14日、イングランド南西部の海辺の町ウェストン・スーパー・メアで生まれました。2歳頃に家族とともにロンドン近郊のヘストンへ移り、そこで育っています。
そのため、ウェストン・スーパー・メアは出生地、ヘストンは出身地として紹介されることがあります。
2.父親は「きちんと習うこと」を条件にギターを買った
リッチーがギターを手にしたのは11歳頃です。
父親は、ただ遊びで弾くのではなく、正しくレッスンを受けることを条件にギターを買い与えました。リッチーは約1年間クラシックギターの基礎を学びます。
後に彼がバッハやベートーヴェンの旋律をロックへ持ち込んだ背景には、少年時代に受けた基礎教育がありました。
ただし、当時からクラシック音楽一筋だったわけではありません。本人が強く憧れていたのは、トミー・スティール、エルヴィス・プレスリー、クリフ・リチャード、シャドウズといったポピュラー音楽のスターでした。
3.15歳で学校を辞め、ヒースロー空港で働いていた
リッチーは15歳頃に学校を辞め、ヒースロー空港で無線整備士の見習いとして働き始めました。
華やかなロックスターとは結びつきにくい経歴ですが、電子機器に触れた経験は、後にアンプやエフェクターを研究する姿勢とも無関係ではないでしょう。
彼は若い頃から音そのものだけでなく、「どうすれば機材から自分の求める音を出せるか」に強い関心を持っていました。
4.若い頃に英国屈指のセッションギタリストから習っていた
エレキギターについては、英国を代表するセッションギタリストのビッグ・ジム・サリヴァンから指導を受けています。
サリヴァンは多くのレコード制作に参加し、若いギタリストたちから尊敬されていた人物です。
リッチーは完全な独学の天才ではありません。クラシックギターの基礎と、プロの現場で通用するエレキギターの技術を学んだうえで、自分のスタイルを作り上げました。
5.ディープ・パープル以前から多数のレコードに参加していた
リッチーは無名時代、プロデューサーのジョー・ミーク周辺でセッションギタリストとして活動していました。
インストゥルメンタルバンド、アウトローズのメンバーとなり、ハインツのヒット曲「Just Like Eddie」や、グレンダ・コリンズなどの録音へ参加しています。
ディープ・パープルで突然現れた新人ではありません。10代後半からスタジオとステージの両方で経験を重ねていた、若いながらも職業音楽家だったのです。
6.派手なステージ演出はスクリーミング・ロード・サッチ時代に学んだ
若きリッチーは、スクリーミング・ロード・サッチ&ザ・サヴェージズにも参加しました。
サッチはホラー映画の登場人物のような衣装を着て、棺おけや小道具を使う劇場型のロック歌手でした。
リッチーはこの時期、上手に演奏するだけでは観客の記憶に残らないことを学びます。ギターを振り回す、空中へ投げる、壊すといった後のステージアクションには、サッチのショーから受けた影響がありました。
7.「ディープ・パープル」という名前を提案したのはリッチー
ディープ・パープルは、結成準備段階では「ラウンドアバウト」と呼ばれていました。
正式なバンド名を決める際、リッチーが「Deep Purple」を提案します。これは、彼の祖母が好きだった古い流行歌の題名でした。
重く神秘的なバンドイメージから考えられた名前のように見えますが、由来は家族の思い出だったのです。
8.最初からストラトキャスターを使っていたわけではない
リッチーを象徴するギターは、白いフェンダー・ストラトキャスターです。
しかし1960年代には、主にギブソンES-335を使用していました。ディープ・パープル初期の映像では、現在のイメージとは異なるセミアコースティックギターを弾く姿を確認できます。
ストラトキャスターが中心になるのは1970年前後からです。その後、白いストラトと黒い衣装の組み合わせが「マン・イン・ブラック」の視覚的なイメージを完成させました。
9.指板を削った「スキャロップド加工」の先駆者
リッチーのストラトキャスターには、指板の木部をフレット間ごとにえぐる「スキャロップド加工」が施されています。
弦を押さえた指が指板へ触れにくくなるため、軽い力でチョーキングやビブラートをかけられます。一方で、押さえる力が強すぎると音程が上ずるため、繊細なコントロールが必要です。
現在はイングヴェイ・マルムスティーンのギターでも有名ですが、リッチーはロック界でこの加工を早くから使った代表的ギタリストです。
フェンダーのリッチー・ブラックモア・モデルにも、低音弦側は浅く、高音域へ進むほど深くなる独特の段階的なスキャロップ加工が採用されています。
10.ストラトの中央ピックアップをほとんど使わない
一般的なストラトキャスターには、フロント、センター、リアの3つのピックアップがあります。
しかしリッチーは主にフロントとリアを使い、中央のピックアップは低く沈めるか、配線しない状態にしていました。
中央ピックアップが右手のピッキングを邪魔することを嫌ったためです。一見すると3つのピックアップが付いていても、中央はカバーだけというギターもありました。
現在販売されている公式シグネチャーモデルも、実質的にフロントとリアの2ピックアップ仕様です。
11.「Smoke on the Water」のリフはピックでかき鳴らすのが正解ではない
「Smoke on the Water」は、ギター初心者が最初に覚える代表的なリフです。
一般にはパワーコードをピックで弾くことが多いのですが、オリジナル録音でリッチーが弾いたのは、完全なパワーコードではなく平行4度の2音です。
さらに、ピックでストロークするのではなく、右手の指で2本の弦を同時につまむように弾いています。
余計な弦の音が出ないため、ジョン・ロードのハモンドオルガンと重なっても輪郭のある音になります。簡単に見えるリフにも、リッチーらしい音の設計が隠されているのです。
12.「Smoke on the Water」はベートーヴェン第5番を逆にしたと語っている
リッチーは「Smoke on the Water」のリフについて、ベートーヴェンの交響曲第5番の有名な動機を逆さにしたものだと説明しています。
さらに「ベートーヴェンには大金を払わなければならない」と冗談も述べました。
ただし、2つの旋律が音楽理論上そのまま反転関係にあるわけではなく、どこまで本気の説明だったかは分かりません。
リッチーはインタビューで真面目な話と冗談を混ぜる人物です。「本人がそう説明した」という事実と、「実際にベートーヴェンをそのまま反転した」という解釈は分けて考えた方がよいでしょう。
13.本人は「Smoke on the Water」を最高傑作だと思っていない
世界中で知られる「Smoke on the Water」ですが、リッチー自身はディープ・パープルにはもっと優れた曲があると考えていました。
添付されたインタビューでも、この曲は自分のお気に入りではないものの、人々が選ぶなら受け入れるという趣旨の発言をしています。
本人にとっては、演奏中の偶然から生まれた比較的単純なリフの1つでした。作曲者の評価と、聴衆が選んだ代表曲が一致しない好例です。
14.アンプの音量が大きすぎて工場の作業員が外へ出た
リッチーはマーシャル創業者のジム・マーシャルと面識があり、ブレッチリーの工場でアンプを試していました。
本人の回想によると、テストのために大音量でギターを弾くと、組み立てラインの従業員たちは仕事ができないとして外へ出てしまったそうです。
ジム・マーシャルも、離れた場所から音を聞いただけで、リッチーが工場へ来ていると分かったといいます。
多少のユーモアを交えた思い出話ですが、リッチーが若い頃から音量とアンプの反応に強いこだわりを持っていたことが伝わります。
15.ディープ・パープルは本当にギネスから「世界一うるさいバンド」と認定された
1972年、ロンドンのレインボー・シアター公演で、ディープ・パープルは117dBAを記録したとされています。
1万ワットのマーシャルPAを劇場へ持ち込んだ結果、ギネスブックから「世界で最も音の大きなバンド」と認定されました。観客3人が意識を失ったという話も、当時の記録に含まれています。
ただし、測定距離や平均値か瞬間値かといった条件は明確ではありません。したがって「歴史上、科学的に最もうるさかった」というより、「当時のギネス上で世界一だった」と理解するのが正確です。
16.ギターとオルガンの対決がディープ・パープルの特徴を作った
ディープ・パープルの音は、ギターだけで作られたものではありません。
ジョン・ロードはハモンドオルガンをマーシャルアンプへ接続し、ギターのように歪ませました。リッチーとロードが同じフレーズを重ねたり、交互に即興演奏を行ったりすることで、他のハードロックバンドにはない音が生まれます。
リッチーはコードを埋め尽くすのではなく、単音やオクターブを使って意図的に空間を残すことがありました。その隙間へロードのオルガンが入るため、2人の音が競いながらも共存できたのです。
17.カリフォルニア・ジャムの「炎」は計画済み、巨大爆発は計画外
1974年のCalifornia Jamで、リッチーはテレビカメラをギターで攻撃し、ステージ後方のマーシャルアンプを爆発させました。
ただし、すべてがその場の衝動だったわけではありません。
アンプへ火をつける演出自体は、スタッフと事前に用意していました。ところが燃料や爆薬の量が多すぎたため、本人の予想を超える巨大な火球が発生します。
映像では、爆発した瞬間にリッチー自身も驚いて逃げています。
つまり、カメラへの攻撃は突発的、炎の演出は計画的、ステージへ損傷を与えるほどの爆発は想定外でした。
18.レインボー結成のきっかけは、カバー曲を拒否されたこと
第3期ディープ・パープルで、リッチーはクォーターマスの「Black Sheep of the Family」を録音したいと提案しました。
しかし、他のメンバーは自分たちで書いていない曲を演奏することなどを理由に反対します。
そこでリッチーは、前座バンドのエルフにいたロニー・ジェイムス・ディオらと同曲を録音しました。セッションが予想以上にうまくいったため、オリジナル曲も作り、レインボーのデビューアルバムへ発展します。
録音を拒否された1曲が、ディープ・パープル脱退とレインボー誕生を後押ししたのです。
19.「レインボー」という名前は飲食店の看板から生まれた
レインボーという名前は、中世の伝説や神話から選ばれたように思えます。
実際には、米国ロサンゼルスのサンセット・ストリップにある「Rainbow Bar and Grill」に由来します。
リッチーの説明では、ディオと店にいた際にバンド名を考え、看板を指して「レインボー」に決めました。
偶然決まった名前でしたが、虹はディオの幻想的な歌詞や、後の巨大な虹型ステージセットと見事に結びつきました。
20.デビュー作の後、ディオ以外のメンバーを総入れ替えした
レインボーのデビューアルバムには、ディオが所属していたエルフのメンバーが参加しました。
しかしリッチーは、より強力なライブバンドを作るため、ディオ以外のメンバーを交代させます。
ドラムにコージー・パウエル、ベースにジミー・ベイン、キーボードにトニー・カレイを迎え、この編成で名盤『Rising』を制作しました。
最初からレインボーは固定メンバーによる民主的なバンドではなく、リッチーが理想の演奏者を選び続けるプロジェクトだったのです。
21.「Stargazer」にはミュンヘンのオーケストラが参加している
レインボーの代表曲「Stargazer」は、約8分半に及ぶ壮大な楽曲です。
録音にはミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団が参加しました。リッチーの東洋的なギタースケール、コージー・パウエルの強烈なドラム、ディオの魔法使いを題材にした歌詞へオーケストラが加わり、後のパワーメタルにもつながる音を作っています。
リッチーは『Rising』をお気に入りのレインボー作品に挙げ、「Stargazer」を特に好きな曲として語っています。
22.ディオと別れた理由は、歌唱力ではなく「ラブソングを書かなかったから」
リッチーとディオは、音楽的な相性が悪くなって別れたのではありません。
レインボーが英国、欧州、日本で成功する一方、米国のラジオでは十分に流れなかったため、リッチーは短く親しみやすい曲を求めるようになりました。
リッチー側から男女関係を扱う曲を提案されたディオは、「自分はラブソングを書かない」と拒否します。
ディオは幻想的で重厚な世界を守り、リッチーはヒット曲を作れる方向へ進みました。その後、グラハム・ボネットを迎えたレインボーは「Since You Been Gone」を英国6位のヒットにしています。
23.実はABBAを非常に高く評価している
黒い衣装、激しいギター、魔法使いや悪魔を思わせる音楽。そのイメージとは対照的に、リッチーはABBAの大ファンです。
2024年に紹介されたインタビューでは、ABBAを「おそらく最も好きなバンド」とまで述べています。
『Long Live Rock ‘n’ Roll』制作中には、コージー・パウエルが恐る恐るABBA好きを告白したところ、リッチーもディオも好きだと認め、3人で聴いたという逸話があります。
リッチーは音楽を重さだけで判断していません。ABBAのような明確で美しいメロディーを高く評価しており、この好みが後期レインボーのポップな方向にもつながりました。
24.交霊会や超常現象に関心を持っていた
リッチーは、交霊会や霊とのコミュニケーションなど、超常現象を長年研究してきたと語っています。
黒い服装や中世趣味も重なり、黒魔術を行っているように語られることがあります。しかし本人は、関心があるのは超常現象や精神世界であり、黒魔術ではないと区別しています。
怪談や幽霊の出るとされる場所を好む一方で、話には乾いた冗談も混ざります。どこまで信じ、どこから雰囲気を楽しんでいたのか判別しにくいところも、リッチーらしさです。
25.ハードロックを捨てたのではなく、昔から好きだった音楽へ戻った
1997年、リッチーはキャンディス・ナイトとブラックモアズ・ナイトを結成しました。
ストラトキャスターをマーシャルアンプで鳴らす音楽から、アコースティックギター、マンドリン、ハーディ・ガーディなどを使うルネサンス風フォークロックへ移ったため、多くのファンは突然の転向に驚きました。
しかし、クラシック音楽、中世の旋律、古城、伝承への関心は、レインボー以前から続いています。「Stargazer」や「The Temple of the King」にあった要素を、より静かな形で前面へ出したともいえます。
ブラックモアズ・ナイトの2作目『Under a Violet Moon』の題名にも家族の名前が隠されています。「Violet」は母親の名前、「Moon」は祖母の姓に由来するとされています。
リッチーはハードロックを否定したのではなく、長年その内側に隠していた音楽へ戻ったのです。
まとめ――破天荒さと繊細さを併せ持つギタリスト
リッチー・ブラックモアについては、メンバーとの衝突、ギターの破壊、ステージの爆発といった話が注目されがちです。
しかし、その音楽を作ったのは短気な性格だけではありません。
少年時代に学んだクラシックギター、無線整備の経験、セッション現場で身につけた対応力、スキャロップド指板を使いこなす繊細なタッチ、アンプへの研究心、そしてクラシックからABBAまで認める幅広い音楽観が、リッチーの演奏を形作っています。
彼は気難しく、周囲に妥協を求めない人物でした。その一方で、自分自身の演奏にも満足せず、常に理想の音を探していました。
リッチーを「暴れる天才」として見るだけでも面白いでしょう。しかし、機材、作曲、音楽史、意外な好みを知ってから曲を聴くと、その印象は変わります。
荒々しいギターの背後にあるのは、非常に計算された音の配置と、美しい旋律に対する執念です。
それこそが、リッチー・ブラックモアを単なるギターヒーローではなく、半世紀以上にわたって語られる音楽家にした最大の理由でしょう。
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