リッチー・ブラックモアのクラシカルなギターと、ロニー・ジェイムス・ディオの力強い歌声。1975年に始まった2人の共演は、ハードロックとヘヴィメタルの歴史を変えました。
リッチーとディオが残したスタジオアルバムは、わずか3枚です。
1975年の『Ritchie Blackmore’s Rainbow』、1976年の『Rising』、そして1978年の『Long Live Rock ‘n’ Roll』。活動期間も3年ほどにすぎません。
それでも「Man on the Silver Mountain」「Stargazer」「Kill the King」「Long Live Rock ‘n’ Roll」「Gates of Babylon」など、この時期には後世へ残る名曲が集中しています。
これほど相性の良かった2人は、なぜ別れてしまったのでしょうか。
結論からいえば、原因は単純な喧嘩ではありません。
最大の理由は、米国でも成功するためにラジオ向けの楽曲を求めたリッチーと、幻想的で重厚な音楽を守ろうとしたディオの方向性が、完全に食い違ったことです。
リッチーは、男女関係を題材にした分かりやすい曲を求めました。しかしディオは、「自分はラブソングを書かない」と拒否します。
そこへ米国市場での伸び悩み、頻繁なメンバー交代、リッチーを絶対的な中心とするバンド運営、2人のコミュニケーション不足が重なりました。
黄金期が3枚で終わったのは、才能が足りなかったからではありません。むしろ、2人がそれぞれの美学を曲げないほど強い音楽家だったからです。
ディープ・パープルを離れたリッチーが探していた声
1974年頃、リッチーはディープ・パープルの音楽に強い不満を抱いていました。
デイヴィッド・カヴァデールとグレン・ヒューズを迎えた第3期ディープ・パープルでは、ファンクやソウルの要素が次第に強くなっていました。アルバム『Stormbringer』でその傾向が明確になると、クラシック音楽の旋律を取り入れた重厚なハードロックを志向するリッチーは、バンドとの距離を広げていきます。
当時、ディープ・パープルの前座を何度も務めていたのが、米国のバンド、エルフでした。そのボーカルがロニー・ジェイムス・ディオです。
ディオは小柄でしたが、身体の大きさからは想像できないほど強く、深い声を持っていました。ブルースを歌えるだけでなく、声に威厳と物語性がありました。
リッチーは後年、ツアーを重ねるうちに、最初はディオの声を気に入り、次にその性格を好きになり、最後には人間として好きになったと振り返っています。
2人が特に共有していたのは、クラシック音楽と中世的な世界への関心でした。
リッチーがギターで古典音楽の旋律やドラマチックなリフを作り、ディオが魔法使い、王、塔、虹、星といった言葉で物語を与える。両者の才能は、最初から自然にかみ合いました。
この出会いから「Black Sheep of the Family」と「Sixteenth Century Greensleeves」の録音が始まり、やがてリッチーはディープ・パープルを離れます。
こうして1975年、レインボーが誕生しました。
1枚目――理想の世界が形になった『Ritchie Blackmore’s Rainbow』
デビューアルバム『Ritchie Blackmore’s Rainbow』は、リッチーとエルフのメンバーによって制作されました。
アルバム名に「Ritchie Blackmore’s」と付いていることからも分かるように、レインボーは最初からリッチーを中心とするプロジェクトでした。
ただし、音楽の核はリッチー1人で作ったものではありません。
リッチーが生み出したリフと旋律に、ディオが歌のメロディーと歌詞を加えます。「Man on the Silver Mountain」では、山の頂に立つ謎めいた人物を描き、「The Temple of the King」では、王の神殿を訪れる者の物語を歌いました。
現実の恋愛や日常生活ではなく、聴き手を別世界へ連れていく音楽です。
ディオは後に、自分とリッチーには共通する音楽的感覚があり、バッハをはじめとするクラシック音楽の神秘的な雰囲気を、現代のロックへ持ち込みたいと考えていたと語っています。
この時点では、2人の目指す方向は一致していました。
アルバムは英国で11位、米国のBillboard 200でも30位に入りました。ディープ・パープルから独立したばかりの新バンドとしては、順調な出発です。
しかし、リッチーは完成した演奏陣に満足しませんでした。
デビュー作の録音に参加したエルフ出身のメンバーを次々と外し、ドラムにコージー・パウエル、ベースにジミー・ベイン、キーボードにトニー・カレイを迎えます。ディオだけは残りました。
この大幅な交代によって、レインボーはリッチーとディオの共同作業を中心としながらも、より強力なライブバンドへ作り替えられました。
同時に、「レインボーでは、リッチーの判断によって誰でも交代させられる」という構造も、早くから明らかになっていました。
2枚目――2人の理想が頂点に達した『Rising』
1976年に発表された『Rising』は、リッチーとディオの才能が最も美しく重なった作品と評価されています。
全6曲という短いアルバムですが、後半には8分を超える「Stargazer」と「A Light in the Black」が収録されています。
特に「Stargazer」は、巨大な塔を建設させる魔法使いと、彼に支配された人々を描いた物語です。
リッチーは東洋的な響きを持つスケールと重いギターリフを組み合わせ、コージー・パウエルが雷鳴のようなドラムを叩きます。さらにミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団が参加し、ロックバンドとオーケストラが一体になった壮大な音像を作りました。
そこへディオが、単なる恋愛や反抗ではなく、支配、希望、犠牲、解放という物語を歌います。
リッチーの音楽はディオの歌詞によって世界を与えられ、ディオの物語はリッチーのギターによって現実の音になりました。
この組み合わせは、後のパワーメタルやネオクラシカルメタルへ大きな影響を与えます。『Rising』は、レインボーの代表作であるだけでなく、1970年代ヘヴィロックの重要作となりました。
しかし、芸術的な評価と商業的な成功は同じではありません。
『Rising』は英国で6位に入った一方、米国のBillboard 200では48位でした。英国、欧州、日本ではレインボーの人気が高まっていましたが、米国ではディープ・パープル時代の規模に届きませんでした。
リッチーにとって、ここは大きな不満でした。
『Stargazer』のような長く壮大な曲は熱心なロックファンから支持されます。しかし、約8分半の曲はラジオで繰り返し放送されるシングルには向きません。
『Rising』で2人の芸術的な理想は頂点に達しましたが、その成功がかえって次の問題を浮かび上がらせました。
この路線をさらに深めるのか。それとも、より幅広い聴衆へ届く音楽に変えるのか。
リッチーとディオの答えは、同じではありませんでした。
3枚目――『Long Live Rock ‘n’ Roll』に見えた方向転換
3枚目の『Long Live Rock ‘n’ Roll』は1978年に発表されました。
「Kill the King」や「Gates of Babylon」には、『Rising』から続く重厚で幻想的な魅力があります。特に「Gates of Babylon」は、中東的な旋律とディオの物語性が結びついた、黄金期を代表する曲です。
一方で、アルバムには変化も表れていました。
表題曲「Long Live Rock ‘n’ Roll」は、観客がすぐ合唱できる分かりやすいロックアンセムです。「L.A. Connection」「Sensitive to Light」など、比較的短く直接的な曲も増えました。
リッチーは、壮大さを完全に捨てたわけではありません。しかし、より簡潔で伝わりやすい曲へ関心を移し始めていました。
制作中には、メンバーも再び変わります。
『Rising』に参加したジミー・ベインとトニー・カレイが去り、ベースにボブ・デイズリー、キーボードにデヴィッド・ストーンが加わりました。リッチーとディオの黄金コンビは続いていましたが、バンド全体としては安定した共同体ではありませんでした。
アルバムは英国で7位を記録しました。しかし米国のBillboard 200では89位にとどまり、前作の48位からさらに順位を落とします。
英国や日本で人気があっても、米国のラジオでは十分に流れない。リッチーは、ディープ・パープルで経験した世界規模の成功を、レインボーでも求めていました。
音楽的には高く評価された3枚目が、商業面では「このままでは米国市場を突破できない」とリッチーに判断させる結果になったのです。
リッチーが求めたのは「米国のラジオで流れる曲」
『Long Live Rock ‘n’ Roll』発表後、次のアルバムに向けたリハーサルが始まりました。
ここで2人の違いが、修復できないほど大きくなります。
リッチーは、レインボーをより商業的な方向へ進めようとしていました。長い物語曲ではなく、短く、覚えやすく、ラジオで流しやすい曲が必要だと考えたのです。
関係者の証言によれば、リッチーはディオに、男女の関係を題材にした曲を書いてはどうかと提案しました。
しかしディオは拒否します。
「自分はラブソングを書かない」
ディオが好んだのは、恋愛を直接歌うことではありませんでした。魔法使いや虹、王や悪魔といった象徴を通して、人間の希望、恐怖、自由、善悪を描くことです。
ディオにとってファンタジーは、現実逃避の飾りではありません。現実の問題を、より大きな物語として表現するための方法でした。
それを捨てて一般的な恋愛曲を書くことは、自分の作家性を捨てることに近かったのでしょう。
一方、リッチーにとって音楽性の変更は裏切りではありませんでした。
彼はディープ・パープルのファンク化を嫌って脱退した人物ですが、特定の様式を永遠に守るタイプでもありません。より良いメロディーや新しい刺激を見つければ、自分で作った編成や路線さえ変更します。
リッチーは「芸術か商業か」の一方だけを選んだのではなく、演奏の質を保ちながらヒット曲を作りたいと考えていました。
しかしディオから見れば、それはレインボーが築いた独自性を、自ら手放す方向転換でした。
2人は、同じバンドの次のアルバムを作ろうとしながら、すでに別の未来を見ていたのです。
決定打となったコミュニケーション不足
方向性が違っていても、十分に話し合えば妥協点を探せた可能性はあります。
しかし当時のリッチーとディオは、直接意見を交わすことさえ少なくなっていました。
次作のプロデューサー候補として呼ばれたロジャー・グローヴァーは、2人の間に「巨大な溝」があったと振り返っています。
リッチーが作ったアイデアをカセットテープでディオへ持っていくと、ディオは気に入らないと答え、別の案を渡します。それをリッチーへ持ち帰ると、今度はリッチーが否定する。グローヴァーが伝言役のようになり、2人は同じ場所で曲を完成させられなくなっていました。
リハーサルでも、リッチーとコージー・パウエルが演奏を始める一方、ディオは離れた場所でノートへ書き込み、積極的に歌おうとしなかったと伝えられています。
これは単なる気分の問題ではありません。
リッチーは、もっと簡潔で商業的な曲を作ろうとしていました。ディオは、その方向へ進む音楽に自分の声と歌詞を与えたくありませんでした。
共同作業の前提が、すでに失われていたのです。
ディオは自分から辞めたのか、それとも解雇されたのか
ディオの離脱については、資料によって「脱退した」「追い出された」「解雇された」と表現が異なります。
ロジャー・グローヴァーは、マネージャーから「ロニーは去った。残ったのはリッチーとコージーだけだ」と告げられたと証言しています。
一方、ディオを扱った後年の資料では、リッチーの求める商業路線を拒否した結果、ディオが解雇されたと説明されています。
実際には、どちらか一方が突然「辞める」「クビだ」と宣言しただけの単純な場面ではなかったのでしょう。
ディオは新しい路線へ参加する意思を失い、リッチー側もディオと次作を作る考えを失っていました。形式が脱退であっても、実質的にはバンドから外されるのに近い別れでした。
重要なのは、ディオの歌唱力が落ちたから外されたのではないことです。
むしろリッチーは、ディオの声と才能を高く評価していました。問題は、その才能が次に作りたい音楽と合わなくなったことでした。
「Since You Been Gone」が方向転換を証明した
ディオに代わって加入したのが、グラハム・ボネットです。
新たにロジャー・グローヴァーがプロデューサーとベーシストを務め、1979年にアルバム『Down to Earth』が発表されました。
その中心となったのが、ラス・バラード作曲の「Since You Been Gone」です。
短く、明るく、すぐ覚えられるサビを持つこの曲は、ディオ時代の「Stargazer」や「Gates of Babylon」とは大きく異なります。
グローヴァーでさえ、最初にマネージャーからこの曲を聞かされたとき、「リッチーが演奏するはずがない」と考えたといいます。それほど大胆な方向転換でした。
しかし、リッチーは本気でした。
「Since You Been Gone」は英国シングルチャートで6位を記録し、レインボーにとって当時最大のヒットとなります。米国でもBillboard Hot 100で57位に入り、ディオ時代には得られなかったシングルチャートへの足掛かりを作りました。
これは、リッチーの判断が商業的には一定の成果を上げたことを示しています。
同時に、ディオが残っていたとしても、この曲を喜んで歌ったとは考えにくいでしょう。
「Since You Been Gone」の成功は、2人の別れが誤解や一時的な喧嘩ではなく、音楽の目的そのものの違いから生まれたことを証明しました。
レインボーは「2人のバンド」ではなく、リッチーのバンドだった
黄金期の音楽を聴くと、レインボーはリッチーとディオの対等な共同体に思えます。
実際、作曲面では2人の結びつきが不可欠でした。
しかしバンドの運営は、最初から対等ではありません。
デビューアルバムの正式名称は『Ritchie Blackmore’s Rainbow』です。リッチーが方向を決め、必要と考えればメンバーを交代させます。エルフ出身の演奏陣を外し、『Rising』のメンバーも長くは残しませんでした。
リッチーにとってレインボーは、自分の音楽的ビジョンを実現するために作ったバンドです。
その中でディオは、単なる雇われボーカリストを超える存在になりました。自分の歌詞、哲学、ファンを持ち、音楽の方向について譲らない共同作者です。
ここに、2人の関係の魅力と危うさがありました。
ディオがリッチーの指示をすべて受け入れる歌手なら、『Rising』のような作品は生まれなかったでしょう。しかし、自分の世界観を持つディオは、リッチーが方向転換したときに従うこともできませんでした。
強い個性同士が同じ方向を向いている間は、他の誰にも作れない音楽が生まれます。方向が分かれた瞬間には、どちらかが折れない限り、同じバンドへ残ることはできません。
別れたことで、2人はそれぞれの道を完成させた
ディオにとって、レインボーからの離脱は大きな打撃でした。
しかし1979年、オジー・オズボーンを失ったブラック・サバスへ加入します。そして1980年の『Heaven and Hell』で、レインボー時代から続く威厳ある歌声と物語性を、さらに重いヘヴィメタルへ発展させました。
その後は自らのバンド、ディオを結成し、1983年に『Holy Diver』を発表します。
一方のリッチーは、グラハム・ボネット、続いてジョー・リン・ターナーを迎え、レインボーをよりメロディアスでラジオ向けのハードロックへ変えていきました。
「I Surrender」「Since You Been Gone」「Street of Dreams」など、後期レインボーにはディオ時代とは異なる魅力と成功があります。
もし2人が無理に一緒に活動を続けていたら、『Heaven and Hell』も『Holy Diver』も、ポップなレインボーのヒット曲も生まれなかった可能性があります。
ファンにとって別れは惜しいものでしたが、結果的には2人の才能を別々の方向へ解放しました。
まとめ――嫌いになったからではなく、同じ未来を描けなくなった
リッチー・ブラックモアとロニー・ジェイムス・ディオが別れた最大の理由は、音楽性の違いです。
リッチーは、米国のラジオで流れ、シングルとして売れる、簡潔で親しみやすいハードロックを求めました。ディオは、幻想的な物語と重厚な音楽を捨てず、ラブソングを書くことを拒みました。
その背景には、ディオ時代のアルバムが英国、欧州、日本で高く評価されながら、米国では順位を落としていたという商業上の問題があります。
さらに、レインボーがリッチー主導のバンドだったこと、頻繁なメンバー交代が続いていたこと、2人が直接話し合えないほど関係を悪化させていたことも、別れを早めました。
レインボー黄金期が3枚で終わったのは、2人の相性が悪かったからではありません。
リッチーのギターへ物語を与えられるのはディオであり、ディオの物語を巨大な音楽へ変えられるのはリッチーでした。だからこそ、同じ方向を向いていた3年間には、驚くほど濃密な作品が生まれました。
しかしリッチーは変化を求め、ディオは自分の美学を守りました。
どちらかが妥協していれば、4枚目は作れたかもしれません。ただし、それは『Rising』を生んだ2人らしい作品ではなかったでしょう。
わずか3枚で終わったからこそ、ディオ時代のレインボーには迷いのない世界観が残りました。
黄金期の終わりは才能の枯渇ではなく、2人の才能が別々の未来を選んだ瞬間だったのです。
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