緑色に染めた髪、相手を射抜くような目つき、歯をむき出しにした歌い方、そして観客に好かれようとしない挑発的な態度――。
ジョニー・ロットンは、セックス・ピストルズのボーカリストとして、1970年代のイギリス社会に大きな衝撃を与えました。
「Anarchy in the U.K.」では自らをアナーキストだと宣言し、「God Save the Queen」では英国王室と国家体制を正面から批判。テレビの生放送では放送禁止用語を口にし、わずか数年で「英国で最も危険な若者」のように扱われます。
しかし、ジョニー・ロットンは作られたキャラクターであり、その内側にはジョン・ライドンという1人の人間がいました。
貧困、髄膜炎、長期にわたる記憶障害、学校や宗教への反発を経験した少年は、セックス・ピストルズのフロントマンとなり、バンド崩壊後は本名のジョン・ライドンに戻ってPublic Image Ltdを結成します。
さらに、マネージャーのマルコム・マクラーレンとの法廷闘争、テレビ番組への出演、セックス・ピストルズ再結成、そしてアルツハイマー病を患った妻ノラ・フォースターの介護など、その人生はパンク時代だけでは語り尽くせません。
本記事では、ジョニー・ロットンことジョン・ライドンの生涯を、幼少期からセックス・ピストルズ、Public Image Ltd、妻ノラとの生活、近年の活動まで時系列に沿って紹介します。
ジョニー・ロットン/ジョン・ライドンとはどのような人物なのか
ジョン・ライドンは、1956年にロンドンで生まれたイギリスのミュージシャンです。
1975年にセックス・ピストルズへ加入し、「ジョニー・ロットン」の名前でボーカルを担当しました。
ロットンは英語で「腐った」という意味です。傷んだ歯の状態から付けられた呼び名だとされています。
セックス・ピストルズでは、社会への怒り、王室への反発、失業や階級社会に対する不満を、独特の歌声と皮肉に満ちた言葉で表現しました。
1978年にセックス・ピストルズを脱退すると、ジョン・ライドンの名前に戻り、Public Image Ltd、通称PiLを結成します。
PiLではパンクロックの繰り返しを避け、ダブ、実験音楽、ニューウェイブ、ポストパンクなどを取り入れた前衛的な音楽へ進みました。
そのため、ライドンは単なる「昔のパンクスター」ではありません。
セックス・ピストルズで既存のロックを破壊し、PiLでその後の新しい音楽を提示した人物だといえます。
ジョン・ライドンの生涯を簡単に整理
| 年代 | 主な出来事 |
|---|---|
| 1956年 | ロンドン北部で誕生 |
| 1960年代 | 髄膜炎を患い、長期間の入院と記憶障害を経験 |
| 1970年代前半 | 学校を離れ、シド・ヴィシャスらと交流 |
| 1975年 | セックス・ピストルズのボーカルに抜擢 |
| 1976年 | 「Anarchy in the U.K.」でデビュー |
| 1976年 | テレビ生放送のビル・グランディ事件で全国的な悪名を得る |
| 1977年 | 「God Save the Queen」を発表 |
| 1977年 | 唯一のアルバム『勝手にしやがれ!!』を発売 |
| 1978年 | アメリカツアー後にセックス・ピストルズを脱退 |
| 1978年 | Public Image Ltdを結成 |
| 1979年 | マルコム・マクラーレン側を提訴 |
| 1979年 | ノラ・フォースターと結婚 |
| 1986年 | マクラーレンとの法廷闘争に勝利 |
| 1993年 | PiLが活動休止 |
| 1994年 | 自伝を出版 |
| 1996年 | セックス・ピストルズを再結成 |
| 1997年 | ソロアルバム『Psycho’s Path』を発表 |
| 2004年 | 英国のリアリティ番組へ出演 |
| 2006年 | セックス・ピストルズがロックの殿堂入りするも式典を拒否 |
| 2009年 | PiLを再始動 |
| 2012年 | 約20年ぶりとなるPiLのアルバムを発表 |
| 2018年頃 | アルツハイマー病を患った妻ノラの介護に専念 |
| 2023年 | 妻ノラが死去 |
| 2024年 | ライドン抜きのセックス・ピストルズ再始動を批判 |
1956年|ロンドンの労働者階級家庭に誕生
ジョン・ライドンは、1956年1月31日、ロンドン北部のフィンズベリー・パークで生まれました。
両親はアイルランドからイギリスへ渡ってきた移民でした。
家庭は裕福ではなく、家族6人が2部屋の小さなアパートで生活していたといいます。
フィンズベリー・パーク周辺は、アイルランド系やジャマイカ系をはじめとする移民、労働者階級の人々が多く暮らす地域でした。
ライドンは幼い頃から、イギリス社会の中心ではなく、社会の周辺で生活する人々を身近に見て育ちます。
後に歌詞で表現する階級社会への不信感や、英国の権威に対する反発には、この少年時代の環境が大きく影響していました。
1960年代|髄膜炎と記憶喪失
ライドンの少年時代を決定的に変えたのが、7歳の頃に患った髄膜炎です。
症状は非常に重く、約1年間にわたって入院しました。
一時は昏睡状態となり、激しい幻覚にも苦しめられたといいます。
さらに、病気の影響で深刻な記憶障害が残りました。
本人の証言によると、自分の名前だけでなく、両親の顔や、それまでの生活さえ分からなくなったとされています。
退院したからといって、すぐに以前の生活へ戻れたわけではありません。
目の前にいる両親が誰なのか分からず、家族との関係を一から築き直さなければならない状態でした。
記憶や人格を取り戻すまでには、長い年月を必要としました。
ライドンは後年、この体験が「ジョニー・ロットン」へ向かう最初の一歩だったと振り返っています。
周囲の人間を信じられず、何を言われてもそのまま受け入れず、自分の目で確かめようとする姿勢は、この記憶喪失の経験から生まれた部分があったのでしょう。
ジョニー・ロットンの鋭い目つきについても、相手の表情を注意深く読み取ろうとした少年時代の癖が関係しているとされています。
1960年代|少年時代から家計を支える
病気を克服したライドンは、同年代の子どもよりも早く、大人としての責任を背負うようになりました。
資料によると、退院して間もない10歳頃には、家計を助けるため、ミニキャブ会社の呼び出し係として働き始めたといいます。
裕福な環境で音楽教育を受け、将来ミュージシャンになることを目指していたわけではありません。
ライドンにとって音楽は、整えられた環境の中で学ぶものではなく、厳しい生活の中で自分の気持ちを表現するための手段になっていきました。
幼少期は比較的内向的で、孤立しやすい少年だったとされています。
しかし思春期に入ると、学校、教師、宗教、家庭、社会など、自分を管理しようとする権威に対して強く反発するようになりました。
1970年代前半|学校と宗教への反発
ライドンは、カトリック系の厳格な学校へ通っていました。
しかし、教師が一方的に正しさを押し付ける教育や、宗教的な規律に強い違和感を抱きます。
14歳頃になると、教師へ反抗する振る舞いが目立つようになりました。
父親から挑発的な行動をやめるよう注意されると、逆に髪を緑色へ染めたというエピソードもあります。
この行動は単に目立ちたかったからではありません。
周囲が期待する「普通の少年」になることを拒否し、自分の外見を通して意思を示そうとしていたのです。
15歳頃には学校を去ることになります。
ライドンは学歴によって社会的な地位を得る道から外れ、同世代のアウトサイダーたちと交流するようになりました。
シド・ヴィシャスとの友情
学校を離れたライドンが親しくなった若者の1人が、後にセックス・ピストルズへ加入するシド・ヴィシャスです。
2人はロンドンのクラブや若者が集まる場所へ出入りし、音楽やファッションの新しい動きを吸収していきました。
ハムステッド周辺の空き家に入り込み、将来への不安を気にせず、夜ごとにクラブへ遊びに出かけていた時期もあったといいます。
セックス・ピストルズ加入前のシドは、後年のような薬物と暴力に支配された人物ではありませんでした。
ライドンによると、当時のシドは少し間が抜けている一方、陽気で、鋭い冗談を言う若者だったとされています。
ライドンとシドは、社会に自分たちの居場所がないという感覚を共有していました。
この友情が、後にライドンがシドをセックス・ピストルズへ迎える理由の1つになります。
1975年|ブティック「SEX」で人生が変わる
1975年、19歳のライドンに大きな転機が訪れます。
マルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウエストウッドが経営するブティック「SEX」周辺では、新しいバンドのボーカリストが探されていました。
バンドの中心となっていたのは、スティーヴ・ジョーンズ、ポール・クック、グレン・マトロックです。
彼らには楽曲と演奏力がありましたが、バンドの顔となる強烈なボーカリストがいませんでした。
ライドンは当時、ピンク・フロイドのメンバー写真に「I HATE」と書き加えたTシャツを着ていました。
1970年代を代表する大物バンドを否定するような服装は、既存のロックに対する反発を一目で示すものでした。
さらに髪を緑色に染め、当時の一般的な若者とは明らかに異なる姿をしていました。
その外見と態度が、マクラーレンらの目に留まります。
アリス・クーパーを歌った即席オーディション
ライドンは、ブティック「SEX」の店内で簡単なオーディションを受けました。
店のジュークボックスでアリス・クーパーの「I’m Eighteen」を流し、それに合わせて歌ったとされています。
一般的な意味で歌が上手かったわけではありません。
しかし、不協和音のような独特の歌い方、相手をにらみつける目、言葉を吐き捨てるような声には、ほかのボーカリストにはない力がありました。
さらにライドンには、メンバーが漠然と感じていた怒りや不満を、言葉として表現する能力がありました。
こうしてライドンはバンドのボーカリストに選ばれ、「ジョニー・ロットン」の名前を与えられます。
この瞬間、セックス・ピストルズの基本的なメンバーがそろいました。
1975年|セックス・ピストルズのライブデビュー
1975年11月、セックス・ピストルズはロンドンのセント・マーチンズ美術学校で初ライブを行いました。
ライドンは、従来のロックボーカリストとは正反対のフロントマンでした。
多くの歌手が観客からの拍手や愛情を求めるなか、ロットンは観客に気に入られようとしませんでした。
観客をにらみ、侮辱し、わざと怒らせるような態度を取ります。
ライブは頻繁に口論や暴力沙汰へ発展しました。
メンバー同士が衝突し、観客が物を投げ、公演の途中で演奏をやめることもありました。
しかし、そこには単なる騒動だけではないものがありました。
ジョーンズの分厚いギター、クックの力強いドラム、マトロックの覚えやすい楽曲、そしてロットンの異様な歌声が組み合わさると、それまでにない強烈な音が生まれたのです。
ロックの常識を否定したジョニー・ロットン
当時のロック界では、高度な演奏技術、長い楽曲、大がかりな舞台装置が重視されていました。
ビートルズやローリング・ストーンズに続く大物バンドが音楽界の中心におり、若者が簡単に参加できる世界ではなくなっていました。
一方、イギリス国内では不況と失業が深刻化していました。
将来に希望を持てない若者にとって、裕福なロックスターの音楽は、自分たちの現実から遠いものになっていたのです。
ロットンは、美しい声や高度な歌唱技術ではなく、怒り、退屈、不信感をそのまま歌いました。
観客に「自分も表現してよい」と思わせたことが、セックス・ピストルズの大きな功績です。
1976年|「Anarchy in the U.K.」でデビュー
1976年、セックス・ピストルズは大手レコード会社EMIと契約します。
同年11月26日、デビューシングル「Anarchy in the U.K.」を発売しました。
曲の冒頭で、ロットンは自分を「反キリスト」「アナーキスト」だと宣言します。
この歌詞は、政治理論を整理して説明したものではありません。
ライドン本人が社会に対して感じていた怒りや混乱、何も信用できないという感覚を直接的な言葉へ変えたものでした。
「Anarchy in the U.K.」は全英シングルチャート38位を記録します。
チャート上では大ヒットと呼べる数字ではありませんでしたが、実際の影響は順位を大きく上回りました。
曲を聴いた若者のなかには、それまで楽器を弾いた経験がないにもかかわらず、自分もバンドを始めようと考える者が続出します。
ライドンの声は、音楽を一部の才能ある人だけのものから、誰でも参加できる表現へ戻す役割を果たしました。
1976年|ビル・グランディ事件
セックス・ピストルズとジョニー・ロットンを全国的な存在にしたのが、1976年12月に起きた「ビル・グランディ事件」です。
本来出演する予定だったクイーンが番組をキャンセルしたため、セックス・ピストルズが急きょ代役としてテレビの生放送に出演しました。
司会者のビル・グランディは、ロットンらをからかうような態度で質問を続けます。
ロットンが小声で放送禁止用語を口にすると、グランディは聞こえなかったふりをして、もう一度言わせようとしました。
ロットンは、今度ははっきりとその言葉を繰り返します。
さらにグランディが、バンドと一緒に出演していた女性を挑発したことで、酒を飲んでいたスティーヴ・ジョーンズが激怒しました。
ジョーンズは生放送中に放送禁止用語を連発し、グランディと罵り合います。
出演時間は数分にすぎませんでした。
しかし、当時のイギリスのテレビは現在よりもはるかに保守的であり、夕方の生放送でこのような言葉が使われたことは大事件となります。
翌日の新聞は、セックス・ピストルズを「社会の敵」のように扱いました。
この事件によって公演中止が相次ぎ、レコード会社との関係も悪化します。
一方、悪名が広がるほど、ロットンの言葉に共感する若者も増えていきました。
1977年|グレン・マトロックとの対立
セックス・ピストルズの人気が高まる一方、バンド内部ではジョニー・ロットンとグレン・マトロックの関係が悪化していました。
マトロックは、ビートルズやスモール・フェイセスなどのメロディーを重視した音楽を好んでいました。
実際に「Pretty Vacant」をはじめ、セックス・ピストルズの代表曲作りに大きく貢献しています。
しかし、ロットンはバンドが親しみやすいポップグループへ向かうことを警戒していました。
2人は性格的にも正反対だったとされています。
最終的にマトロックはバンドを離れました。
表向きには「ビートルズが好きだったから追放された」と説明されましたが、実際にはロットンやマクラーレンとの対立、メンバー間の派閥など、複数の理由がありました。
マトロックの脱退によって、セックス・ピストルズは主要作曲者を失います。
それは同時に、バンドの短命化を決定づける出来事でもありました。
1977年|シド・ヴィシャスを加入させる
マトロックの後任として加入したのが、ライドンの友人シド・ヴィシャスです。
シドはセックス・ピストルズの熱心なファンで、ロンドンのパンクシーンでも知られた存在でした。
ライドンにとって、シドは古くからの友人であり、バンド内で味方になってくれる人物でもありました。
そのため、シドの加入には、自分の発言力を強めようとするライドンの思惑もあったとされています。
しかし、シドはベースを十分に演奏できませんでした。
唯一のアルバムではスティーヴ・ジョーンズがベースの大部分を担当し、ライブでもシドの音を小さくすることがあったといわれています。
シドの加入によってバンドの見た目はさらに強烈になりましたが、音楽的な安定性は失われました。
ライドンが自分の味方として招いたシドが、後に薬物依存によって別人のようになり、ライドンをさらに孤立させることになります。
1977年|「God Save the Queen」
1977年5月、セックス・ピストルズは「God Save the Queen」を発表しました。
同年は、エリザベス2世の即位25周年を祝うシルバー・ジュビリーの年でした。
イギリス全体が祝賀ムードに包まれるなか、ロットンは王室を「ファシスト体制」と表現し、「イングランドに未来はない」と歌います。
曲は多くの放送局で放送禁止となり、レコード店でも販売を拒否されました。
それでも売り上げを伸ばし、公式の全英シングルチャートでは2位を記録します。
実際には最も売れた曲だったにもかかわらず、政治的な理由で1位を与えられなかったという説も広まりました。
さらにセックス・ピストルズは、即位25周年の祝典に合わせて、テムズ川の船上で同曲を演奏するゲリラライブを行います。
警察が船を止め、マルコム・マクラーレンらが拘束される騒ぎとなりました。
「God Save the Queen」は反英国の曲だったのか
「God Save the Queen」は、女王個人を憎むためだけに書かれた曲ではありません。
当時のイギリスは、失業、貧困、階級格差などの問題を抱えていました。
その一方、国全体が王室の祝典に熱狂し、多額の金を使っていました。
ライドンは、華やかな祝賀行事によって現実の問題が覆い隠されていると感じていました。
王室や国家の価値観を一方的に押し付けられることに対して、「これは自分たちの国でもある」と反発したのです。
その意味で「God Save the Queen」は、単純な反英国ソングではありません。
国家が決めた英国人らしさとは異なる意見を持つ自由を主張した曲でした。
メンバーへの襲撃と「社会の敵」
「God Save the Queen」の発表後、ジョニー・ロットンは英国社会の敵のように扱われました。
街中で襲われ、ナイフで負傷する事件も起きています。
ポール・クックも別の場所で暴行を受けました。
パンクファッションをした若者が、テディボーイやロカビリー系の集団から襲撃されることもありました。
セックス・ピストルズへの反発は、音楽の好みをめぐる争いではなくなっていました。
彼らの言動は、王室、国家、階級、宗教など、イギリス社会が大切にしてきた価値観への攻撃と受け取られたのです。
それでもライドンは、自分の発言を撤回しませんでした。
この経験によって、ジョニー・ロットンは時代の若者にとって反逆の象徴になります。
1977年|唯一のアルバム『勝手にしやがれ!!』
1977年10月28日、セックス・ピストルズは唯一のオリジナルアルバム『Never Mind the Bollocks, Here’s the Sex Pistols』を発売しました。
日本では『勝手にしやがれ!!』の邦題で知られています。
主な収録曲は次のとおりです。
- 「Holidays in the Sun」
- 「Bodies」
- 「God Save the Queen」
- 「Anarchy in the U.K.」
- 「Pretty Vacant」
- 「E.M.I.」
アルバムは全英1位を記録しました。
セックス・ピストルズは「演奏できないバンド」と呼ばれることがありますが、アルバムは非常に力強く、緻密に制作されています。
スティーヴ・ジョーンズはギターを何層も重ね、ベースの大部分も演奏しました。
ポール・クックは正確で力強いドラムによって、サウンドを支えています。
グレン・マトロックが作った親しみやすいメロディーに、ライドンの攻撃的な言葉と声が加わりました。
ライドンは一般的な美声の持ち主ではありません。
しかし、その声には、歌詞の意味と感情を一瞬で伝える力がありました。
1978年|崩壊を早めたアメリカツアー
1978年1月、セックス・ピストルズはアメリカツアーを開始しました。
アメリカには、ニューヨークやサンフランシスコなど、すでにパンクを理解する観客がいる都市がありました。
しかし、マクラーレンは保守的なアメリカ南部を中心にツアー日程を組みます。
敵対的な観客の前で騒動を起こす方が、メディアに注目されると考えたためです。
メンバーは、見知らぬ土地で罵声を浴びせられ、暴力の危険にさらされました。
シドはヘロイン依存が深刻化し、演奏することさえ困難な状態でした。
ライドンとマクラーレンの対立も、修復不可能なところまで進んでいました。
ライドンは、マクラーレンがバンドを守るのではなく、スキャンダルを作るためにメンバーを危険な状況へ追い込んでいると感じていたのです。
ジョニー・ロットンの孤立
ライドンは、バンド内で次第に孤立していきました。
自分の味方として加入させたシドは、恋人ナンシー・スパンゲンと薬物の問題によって、まともに会話できる状態ではなくなっていました。
スティーヴ・ジョーンズとポール・クックとも距離が生まれていました。
マクラーレンとの関係は完全に壊れ、ライドンは自分が管理され、利用されていると感じていました。
表向きには世界で最も注目されるパンクバンドでしたが、内部では誰とも信頼関係を築けない状態だったのです。
1978年|「騙された気分になったことはないか」
1978年1月14日、サンフランシスコのウィンターランドでツアー最終公演が行われました。
最後に演奏したのは、ザ・ストゥージズの「No Fun」です。
演奏が終わると、ロットンは観客へ向かって笑いながら問いかけました。
「騙された気分になったことはないか」
そして、そのままステージを去ります。
この言葉は観客だけでなく、マクラーレン、レコード会社、音楽業界、そしてセックス・ピストルズという仕組みそのものへ向けられたものだったと考えられます。
翌日、ライドンはセックス・ピストルズを脱退しました。
結成から約2年半。
世界を変えたバンドは、人気の頂点で空中分解しました。
脱退後に本名へ戻る
セックス・ピストルズを脱退したライドンは、「ジョニー・ロットン」の名前を使うことが難しい状態になりました。
マクラーレン側が名前やバンドに関係する権利を管理していたためです。
ライドンは本名のジョン・ライドンへ戻り、新しい活動を始めます。
この変化は単なる改名ではありませんでした。
マクラーレンが作り上げたジョニー・ロットンというキャラクターから離れ、1人の音楽家として自分自身を取り戻すための出発点でもありました。
1978年|Public Image Ltdを結成
セックス・ピストルズ脱退後、ライドンはすぐにPublic Image Ltdを結成しました。
メンバーには、ベースのジャー・ウォブル、ギターのキース・レヴィンらが参加します。
ライドンは、セックス・ピストルズと同じ音楽を繰り返すことを選びませんでした。
PiLの音楽には、ダブ、レゲエ、実験音楽、ノイズ、ニューウェイブなど、さまざまな要素が取り入れられています。
デビューアルバム『Public Image: First Issue』に続き、『Metal Box』などの作品を発表しました。
PiLの代表曲「Public Image」は、マクラーレンや音楽業界によって作られた自分のイメージから抜け出そうとする宣言のような作品です。
ライドンは、パンクの反骨精神を捨てたのではありません。
同じ3コードのパンクを繰り返すこと自体が新しい形式への服従になると考え、別の音楽へ進んだのです。
パンクの次を示したPiL
セックス・ピストルズは、既存のロックを破壊するバンドでした。
一方、PiLは、破壊した後にどのような音楽を作るのかを提示しました。
音楽メディアからは、初期のポストパンクやポストロックにつながる存在として評価されています。
ライドンは、商業的に成功したセックス・ピストルズのサウンドを再利用するより、自分が聴きたい音楽を追求しました。
この姿勢は、後のポストパンク、ニューウェイブ、オルタナティブロック、インダストリアルなどに大きな影響を与えます。
PiLの「Rise」で繰り返される「Anger is an energy」という言葉は、ライドンの人生を象徴しています。
怒りは人を破壊するだけのものではなく、何かを作り出すエネルギーにもなるという考え方です。
1979年|マルコム・マクラーレンを提訴
セックス・ピストルズ解散後も、ライドンとマクラーレンの対立は続きました。
マクラーレンは、セックス・ピストルズの成功は自分が計画し、メンバーを操った結果であるかのように描きました。
その象徴が、映画『ザ・グレート・ロックンロール・スウィンドル』です。
作品ではマクラーレンがバンドを作り、レコード会社をだまし、計画どおりに騒動を起こしたという物語が示されました。
ライドンは、この描き方が真実と大きく異なると反発します。
さらに、マクラーレン側はバンド名、楽曲、映画、マスター音源、収益などの権利を握り、メンバーへ正当な報酬を支払っていないとされました。
1979年、ライドンはほかのメンバーとともに、マクラーレン側を相手に訴訟を起こします。
1986年|7年間の法廷闘争に勝利
法廷闘争は約7年間続きました。
若者だったライドンにとって、大人のマネージャーと音楽業界から自分たちの権利を取り戻す戦いでもありました。
1986年、ロンドンの高等法院における判断により、バンドに関する権利や未払い収益がメンバー側へ戻されます。
これによってライドンらは、バンド名、映画、楽曲のマスター音源などに関する権利を取り戻しました。
マクラーレンがすべてを作り、メンバーは操られていただけだったという物語にも、大きな修正が加えられます。
ライドンは、自分が「作られた反逆者」ではなく、自分の言葉と音楽を持つ表現者であることを法廷でも証明したのです。
1979年|ノラ・フォースターと結婚
ライドンは1979年、ドイツ出身のノラ・フォースターと結婚しました。
ノラはライドンより14歳年上でした。
外見や言動からは、ライドンが次々と女性関係を持つ破天荒なロックスターのように見えるかもしれません。
しかし、実際にはノラと40年以上にわたって生活をともにしました。
ジョニー・ロットンとして社会や観客を挑発し続けた一方、私生活では1人の女性を深く愛し、長期的な関係を築いていたのです。
ライドンの公的なイメージと私生活の間にある大きな違いは、彼を理解するうえで重要です。
1980~1990年代|PiLで前衛的な音楽を追求
1980年代を通じて、PiLは度重なるメンバーチェンジを経験しながら活動を続けました。
初期の実験的なサウンドから、よりロックやポップに接近した作品まで、時期によって音楽性を変化させています。
ライドンは固定されたパンクの形式に戻ることなく、新しい音を探し続けました。
PiLは1990年代初頭までに8枚のスタジオアルバムを発表します。
しかし、レコード会社との関係や活動資金などの問題もあり、1993年に一度活動を休止しました。
セックス・ピストルズ時代から一貫して、ライドンは音楽業界との契約や権利をめぐる問題に苦しめられてきました。
1994年|自伝を出版
1994年、ライドンは自伝『Rotten: No Irish, No Blacks, No Dogs』を出版しました。
タイトルには、かつてイギリスの賃貸住宅や施設などで使われたとされる差別的な表現が引用されています。
アイルランド系移民の家庭に生まれたライドンにとって、イギリス社会に存在した階級差別や民族差別は身近な問題でした。
自伝では、幼少期、セックス・ピストルズ、シド・ヴィシャス、マルコム・マクラーレンとの対立など、自分の側から見た歴史を語っています。
マクラーレンが作った「操られたバンド」の物語に対し、当事者として自分の記憶を残す意味も持つ作品でした。
1996年|セックス・ピストルズ再結成
1996年、ジョニー・ロットン、スティーヴ・ジョーンズ、グレン・マトロック、ポール・クックの4人が再結成しました。
再結成の理由について、メンバーは「共通の目的ができた。それは金だ」と公言します。
ツアー名は「Filthy Lucre Tour」でした。「汚い金」という意味を持つ、自虐的で皮肉な名前です。
一般的な再結成バンドが「友情」や「ファンのため」と説明するなか、金のためだと隠さないことも、ライドンらしい態度でした。
再結成には、1979年に死亡したシドではなく、初代ベーシストのグレン・マトロックが参加しました。
音楽的にセックス・ピストルズを成立させるためには、マトロックが必要だったからです。
日本では約1か月にわたり、18公演が行われました。
1997年|ソロアルバム『Psycho’s Path』
1997年、ライドンは初のソロアルバム『Psycho’s Path』を発表しました。
セックス・ピストルズ、PiL、再結成ツアーとは異なる形で、自分の音楽を追求した作品です。
この時期から、ライドンは音楽だけでなく、テレビや映像作品にも活動の場を広げていきます。
ドラマやテレビ番組に本人役で出演し、ドキュメンタリー番組の司会も務めました。
かつてテレビの生放送で英国中を騒がせた人物が、テレビ業界の出演者になることには、大きな皮肉がありました。
一方、ライドンは、こうした仕事の背景にはレコード会社との契約上の問題や、音楽活動の資金を確保する必要があったことも明かしています。
2004年|リアリティ番組で再び放送禁止用語
2004年、ライドンはイギリスの人気リアリティ番組『I’m a Celebrity…Get Me Out of Here!』へ出演しました。
ライドンは50歳に近づいていましたが、テレビに合わせておとなしく振る舞うことはありませんでした。
生放送中、視聴者へ向けて放送禁止用語を口にし、テレビ局に多数の苦情が寄せられます。
1976年のビル・グランディ事件から約30年が経過しても、ジョニー・ロットンの挑発的な性格は変わっていないとして話題になりました。
その一方、昆虫や動物を題材にしたドキュメンタリー番組では、無邪気に生き物と触れ合う姿も見せています。
怒りに満ちたパンク歌手というイメージだけでは捉えられない、好奇心の強い一面が表れました。
2006年|ロックの殿堂入りを拒否
2006年、セックス・ピストルズはロックの殿堂入りを果たしました。
しかし、ライドンをはじめとするメンバーは式典への出席を拒否します。
公式サイトには直筆メッセージが掲載され、ロックの殿堂と、式典への出席に必要とされた高額な費用を激しく批判しました。
そして、殿堂という制度に組み込まれないことこそ、本当のセックス・ピストルズらしさだと主張します。
主催者側は怒るのではなく、「これこそロックンロールだ」と評価しました。
若い頃に王室やレコード会社を批判したライドンは、自分が権威ある存在として認定される立場になっても、その権威を拒否したのです。
2009年|Public Image Ltdを再始動
2009年、ライドンは長期間活動を休止していたPiLを再始動しました。
大手レコード会社へ全面的に依存するのではなく、独立した姿勢でツアーや作品制作を進めます。
2012年には、約20年ぶりとなるスタジオアルバム『This Is PiL』を発表しました。
懐かしのパンク歌手として過去の代表曲だけを演奏するのではなく、60歳を前にしても新しい音楽を作り続けたのです。
PiLはその後もアルバム制作やツアーを続けました。
セックス・ピストルズがライドンの人生のすべてではなく、音楽家としての長い活動の出発点にすぎなかったことが分かります。
政府、王室、宗教を信用しない姿勢
ライドンは若い頃から、政府、王室、宗教、音楽業界など、社会的な権威を基本的に信用しませんでした。
「God Save the Queen」で英国王室を批判した後も、マーガレット・サッチャー政権の保守的な風潮などに反発しました。
ただし、ライドンは特定の政治勢力へ一貫して従う人物でもありません。
右か左かという単純な分類よりも、自分に考え方を押し付けてくる組織そのものを疑う姿勢を持っていました。
本人によると、英国政府から大英帝国勲章の打診を受けた際にも辞退したとされています。
若い頃に国家を批判した人物が、後に国家から名誉を与えられ、それを拒否したという出来事でした。
2018年頃|妻ノラがアルツハイマー病を発症
2018年頃、妻ノラ・フォースターがアルツハイマー病を発症しました。
病気が進行すると、ノラは日常生活で常に介助を必要とするようになります。
ライドンは妻を施設へ入れず、自宅で自ら介護する道を選びました。
ノラに食事を与え、身の回りの世話をし、混乱する妻へ寄り添う生活を続けます。
ライドンは、ノラが自分のことを完全に認識できなくなっても、愛する人はちゃんとそこにいると語りました。
また、妻を世話することは自分にとって苦痛ではなく、愛する相手に当然行うことだという姿勢を示しています。
世界を挑発したジョニー・ロットンの姿と、病気の妻を献身的に介護するジョン・ライドンの姿には、大きな違いがあります。
しかし、他人の期待に合わせず、自分が正しいと考えることを貫くという点では一貫しています。
2022年|セックス・ピストルズの楽曲使用をめぐる裁判
セックス・ピストルズを題材にしたドラマ『Pistol』の制作をめぐり、ライドンは元メンバーと再び対立しました。
スティーヴ・ジョーンズ、ポール・クックらはドラマへの楽曲使用を進めようとしましたが、ライドンは内容や権利の扱いに反発します。
問題は法廷へ持ち込まれ、ライドンは裁判で敗れました。
若い頃にはマクラーレンからバンドの権利を取り戻すためにほかのメンバーと共闘しましたが、今度はその元メンバーと権利を争う立場になったのです。
セックス・ピストルズは活動期間こそ短いものの、バンドの歴史を誰が語り、楽曲をどのように使用するのかという問題は、数十年後まで続いています。
2023年|ノラ・フォースターの死
2023年4月、ノラ・フォースターはアルツハイマー病の合併症によって80歳で亡くなりました。
ライドンとノラの結婚生活は約44年に及びました。
妻を失った後、ライドンは、昼間は元気に振る舞っていても、夜に1人になると激しい孤独感に襲われると明かしています。
ライドンは若い頃から、社会、王室、音楽業界、マネージャー、観客など、あらゆる相手と対立してきました。
しかし、ノラはその人生を長期間にわたって支えた存在でした。
ノラの死は、ライドンにとって最も大きな喪失の1つだったと考えられます。
妻に捧げた「Hawaii」
ライドンは、アルツハイマー病を患ったノラへの思いを込めたバラード「Hawaii」をPiL名義で発表しました。
曲には、2人が過ごした幸福な時間と、記憶を失っていく妻への愛情が込められています。
PiLはこの曲で、ユーロビジョン・ソング・コンテストのアイルランド代表選考にも挑戦しました。
若い頃に「反キリスト」「アナーキスト」と歌った人物が、晩年には病気の妻へ静かな愛を歌うようになったのです。
ただし、これはライドンが反抗心を失い、別人になったという意味ではありません。
怒りだけでなく、愛情、悲しみ、喪失も自分の言葉で表現するようになったと見るべきでしょう。
2024年|ライドン抜きのセックス・ピストルズを批判
2024年、スティーヴ・ジョーンズ、ポール・クック、グレン・マトロックは、フランク・カーターをフロントマンに迎えて公演を行いました。
ジョン・ライドンは参加していません。
ライドンはこの編成を「カラオケ」と批判し、カーターに対しても「ジョニー・ロットンではない」という趣旨の発言をしました。
一方、ジョーンズ、クック、マトロックもセックス・ピストルズの音楽を作った重要な当事者です。
ボーカルがライドンでなければセックス・ピストルズではないのか、それとも楽曲を作り演奏した3人がそろえば、その名前を使用できるのか。
この問題には簡単な答えがありません。
ただし、ロットンの声、歌詞、存在感がセックス・ピストルズの個性を決定づけたことは確かです。
ジョニー・ロットンは作られたキャラクターだったのか
ジョニー・ロットンには、マルコム・マクラーレンが作ったキャラクターという側面があります。
「ロットン」という名前、ヴィヴィアン・ウエストウッドの服、過激な宣伝戦略によって、そのイメージは強化されました。
しかし、ライドンの怒りや反権威的な態度まで、マクラーレンが作ったわけではありません。
髄膜炎による記憶障害、貧困、アイルランド系移民としての生活、厳格な学校教育、階級社会への違和感など、ジョニー・ロットンの土台は加入以前から存在していました。
マクラーレンは、その特徴を見つけ、商業的に拡大した人物です。
ライドンがマクラーレンの操り人形にすぎなかったなら、セックス・ピストルズ脱退後にPiLのような独創的な音楽を作り、7年間の法廷闘争を続けることはできなかったでしょう。
ジョニー・ロットンとジョン・ライドンの違い
ジョニー・ロットンとジョン・ライドンは、完全に別の人物ではありません。
ロットンは、ライドンの中にある怒り、疑い、皮肉、反抗心を極端な形で表現した名前でした。
ジョン・ライドンへ戻った後も、権威への不信感や挑発的な言動は変わっていません。
一方、ジョン・ライドンには、ジョニー・ロットンのイメージだけでは見えにくい部分があります。
実験的な音楽を追求する知性、昆虫や動物に対する好奇心、40年以上連れ添った妻への愛情、アルツハイマー病の妻を自宅で介護する献身性などです。
攻撃的なパンクスターと、妻を深く愛する夫は矛盾しているように見えます。
しかし、周囲の評価に左右されず、自分が信じる相手や考え方を守るという点では、一貫した人物だったといえます。
ジョン・ライドンは何を変えたのか
ジョン・ライドンが革新的だった点は、単に過激な言葉を使ったことではありません。
1.観客に好かれようとしない歌手像を作った
従来のロックボーカリストは、観客からの愛情と注目を求める存在でした。
ロットンは観客をにらみ、侮辱し、意図的に怒らせました。
自分を好きになってもらうことより、自分の言葉を突きつけることを優先したのです。
この「反フロントマン」としての姿勢は、後のパンクやオルタナティブロックに大きな影響を与えました。
2.英国社会の矛盾を若者の言葉で表現した
ライドンは、政治家や研究者のように社会問題を説明したわけではありません。
「未来がない」「何も信用できない」という若者の感情を、短く、直接的な言葉で表現しました。
難しい理論ではなく、怒りそのものを音楽へ変えたことが、多くの若者から支持された理由です。
3.パンクの次に進んだ
多くのミュージシャンであれば、セックス・ピストルズの成功を再現しようとしたでしょう。
しかしライドンは、PiLを結成し、まったく異なる音楽へ進みました。
パンクが流行した時点で、それを繰り返すこと自体が既成概念になると理解していたのです。
破壊だけでなく、その後の創造まで示した点が、ライドンの音楽家としての大きな功績です。
4.怒りを創造の力へ変えた
ライドンの人生には、病気、貧困、差別、契約問題、仲間との対立、妻の病気と死など、数多くの苦難がありました。
そのたびに、怒りや悲しみを音楽、文章、発言へ変えてきました。
「Anger is an energy」という言葉のとおり、怒りを自己破壊だけに使わず、表現を続ける力へ変えたのです。
まとめ|ジョン・ライドンは怒りを創造へ変え続けた
ジョン・ライドンの人生は、セックス・ピストルズの成功物語だけではありません。
ロンドンの貧しいアイルランド系家庭に生まれ、7歳で髄膜炎を患い、自分の名前や両親の顔さえ分からなくなる記憶障害を経験しました。
学校や宗教、大人の権威に反発した少年は、緑色の髪と「I HATE」と書いたピンク・フロイドのTシャツ姿で、マルコム・マクラーレンの目に留まります。
そしてジョニー・ロットンとなり、「Anarchy in the U.K.」や「God Save the Queen」を通じて、将来に希望を持てない若者の怒りを代弁しました。
しかし、バンドはマトロックの脱退、シドの薬物依存、マクラーレンとの対立、過酷なアメリカツアーによって崩壊します。
ライドンは最後のステージで「騙された気分になったことはないか」と問いかけ、セックス・ピストルズを去りました。
その後は本名へ戻り、PiLを結成。パンクの再現ではなく、ダブや実験音楽を取り入れた新しい音楽を作りました。
さらに、マクラーレンとの7年間の法廷闘争に勝利し、自分たちの楽曲と権利を取り戻します。
私生活ではノラ・フォースターと約44年間連れ添い、アルツハイマー病を患った妻を自宅で介護しました。
王室や政府を挑発したジョニー・ロットンと、病気の妻を献身的に支えたジョン・ライドンは、一見すると正反対に見えます。
しかし、周囲の期待や社会の常識に従うのではなく、自分が真実だと信じるものを守り続けた点では一貫しています。
ジョン・ライドンが残した最大の遺産は、過激な言葉や奇抜なファッションだけではありません。
他人が決めた正しさを疑い、自分の頭で考え、怒りや悲しみを創造する力へ変える――。
その姿勢こそが、ジョニー・ロットンという名前を世界に刻み、セックス・ピストルズ解散後も長く音楽を作り続けられた理由なのです。
https://www.youtube.com/watch?v=zUNAr4Uj1xM
https://www.youtube.com/watch?v=K4T40WGP2og
https://www.youtube.com/watch?v=etIeXdZ5MVM
https://www.youtube.com/watch?v=6s4pLKQgUVQ
https://www.youtube.com/watch?v=AGpWj0iKmns
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