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ビートルズの面白いエピソード30選|知られざる逸話から名曲誕生の裏話まで

本記事は、ビートルズに関する複数のエピソードを基に構成しています。

ビートルズは、1962年のデビューから1970年の事実上の解散まで、わずか約8年間で世界の音楽を大きく変えました。

ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターという4人の作品は現在も広く聴かれていますが、彼らの魅力は音楽だけではありません。

結成前の下積み時代には、バスの2階で加入オーディションを行ったり、くだらない悪ふざけで逮捕されたり、正式なドラマーがいないためポールがドラムを担当したりしています。

世界的スターになってからも、夢の中で名曲を思いつく、観客の声で自分たちの演奏が聞こえなくなる、会社の屋上で突然ライブを始めるなど、数多くの印象的な出来事を残しました。

今回は、ビートルズの長い歴史から、特に興味深いエピソードを30個厳選して紹介します。

※証言者や資料によって細部が異なる逸話もあります。その場合は、一般的に伝えられている内容を中心に整理しています。

目次

1.ジョンはポールの才能を恐れながらバンドに誘った

1957年7月6日、ジョン・レノンとポール・マッカートニーは、リバプールのウールトン地区にあるセント・ピーターズ教会の祭りで出会いました。

当時16歳だったジョンは、自ら結成したスキッフルバンド「クオリーメン」で演奏していました。そのステージを見に来ていたのが、15歳のポールです。

共通の友人アイヴァン・ヴォーンから紹介されたポールは、ジョンの前でギターを演奏しました。左利き用にギターを持ち替え、エディ・コクランの「Twenty Flight Rock」や、ジーン・ヴィンセントの「Be-Bop-A-Lula」を歌詞まで正確に覚えて披露したといわれています。

ポールはギターだけでなく、ピアノでもリトル・リチャードの曲を演奏しました。ジョンはその音楽的な能力に強い衝撃を受けます。

しかし、すぐに加入を決めたわけではありません。

ポールをバンドに入れればクオリーメンは確実に良くなります。その一方で、自分より多くのコードや歌詞を知っているポールに、リーダーの立場を奪われる危険もありました。

ジョンは最終的に、自分の立場を守ることよりもバンドの成長を選び、ポールを誘いました。

後に音楽史上屈指の作曲チームとなる2人の関係は、最初から友情だけでなく、尊敬と競争心を含んでいたのです。

2.ポールは学校でも主旋律を歌わず、いつもハモっていた

ポールは若い頃から、ハーモニーに関する優れた感覚を持っていました。

学生時代のポールを知る人物は、学校で賛美歌を歌う際、ポールが普通に主旋律を歌っているところをほとんど聞いたことがないと証言しています。

ほかの生徒が同じメロディーを歌うなか、ポールは自然に別の音程を選び、ハーモニーをつけていました。

ビートルズの大きな魅力の1つは、ジョン、ポール、ジョージによるボーカルハーモニーです。ジョンが低いパート、ポールが高いパートを担当することが多く、そこへジョージが第3の声を加えました。

「This Boy」「If I Fell」「Because」などでは、3人の声が楽器のように組み合わされています。

複雑なコーラスを作る能力は、デビュー後に突然身についたものではありません。ポールは少年時代から、主旋律の裏側にある音を無意識に探していたようです。

3.ジョージはバスの2階で加入オーディションを受けた

クオリーメンがスキッフルからロックンロールへ移行するなかで、バンドには技術のあるリードギタリストが必要になりました。

そこでポールが推薦したのが、同じ学校に通っていたジョージ・ハリスンです。

ジョージのギターは確かに上手でしたが、ジョンには1つの懸念がありました。ジョージはまだ14歳で、見た目も幼かったのです。

そこで行われたのが、リバプールを走る2階建てバスの上での演奏テストでした。

ジョージはアメリカのギタリスト、ビル・ジャスティスのインストゥルメンタル曲「Raunchy」を弾いたと伝えられています。その技術を聴いたジョンは、年齢への懸念を乗り越え、ジョージの加入を認めました。

世界的バンドのメンバーを決める重要なオーディションが、レコード会社やスタジオではなく、バスの2階で行われたのです。

4.ジョージはジョンのデートにまでついていった

後年のジョージ・ハリスンには、物静かで精神世界を重視する「静かなビートル」というイメージがあります。

ところが、バンド加入前のジョージは、かなり積極的にジョンの周囲をついて回っていました。

ジョージはクオリーメンに入りたいという気持ちが強く、ジョンたちが集まる場所へ頻繁に顔を出しました。ジョンが女性と出かける際にも、ジョージがついてきたことがあると伝えられています。

年上のジョンから見れば、ジョージはギターの上手な少年であると同時に、少し面倒な存在だったのかもしれません。

しかし、ジョージは諦めませんでした。自分の演奏力を示し続け、最終的に正式メンバーの座を獲得します。

後の落ち着いた印象とは異なる、ジョージの負けず嫌いで粘り強い一面が分かるエピソードです。

5.ビートルズ最初のレコードは直接ディスクに録音された

1958年、クオリーメンは初めて自分たちの演奏を録音しました。

参加したのはジョン、ポール、ジョージ、ピアニストのジョン・ロウです。録音したのは、バディ・ホリーの「That’ll Be the Day」と、初期のオリジナル曲「In Spite of All the Danger」でした。

当時の彼らには十分なお金がありませんでした。磁気テープを作るには追加費用が必要だったため、演奏を直接アセテート盤へ刻み込みました。

つまり、失敗しても後から修正することはできません。全員で演奏した音が、そのまま1枚のディスクになりました。

ディスクはメンバーが順番に保管しましたが、最終的にジョン・ロウのもとへ渡り、長期間保管されます。数十年後、ポールが買い戻し、音源は1995年発売の『Anthology 1』に収録されました。

リバプールの無名の少年たちが作った私的な記念盤が、後に世界的な歴史資料となったのです。

6.一時期、ポールがバンドの正式なドラマーだった

ビートルズの前身バンドでは、ドラマーがなかなか定着しませんでした。

一般によく知られている初期ドラマーはピート・ベストですが、それ以前にもコリン・ハントン、トミー・ムーア、ノーマン・チャップマンなど、複数の人物がドラムを担当しています。

ノーマン・チャップマンが徴兵された時期など、正式なドラマーがいない場合には、ポールがドラムを担当しました。

ポールはベーシストのイメージが強いものの、ギター、ピアノ、ドラムなどを高い水準で演奏できるマルチプレイヤーです。

ビートルズ時代にも、リンゴが一時的にスタジオを離れた「Back in the U.S.S.R.」などでドラムを演奏しました。

後のソロアルバム『McCartney』では、多くの楽器を自分1人で演奏しています。若い頃の人手不足が、ポールの多彩な演奏能力を育てた面もあるのでしょう。

7.ポールはハンブルクで週38時間もピアノを弾いた

1960年、ビートルズはドイツのハンブルクへ遠征しました。

歓楽街のクラブで、昼夜を問わず長時間の演奏を求められた時代です。メンバーは短期間で大量の曲を覚え、客を飽きさせないように演奏しなければなりませんでした。

ポールは次第にギターよりも、店に置かれていたアップライトピアノを弾くようになりました。一説には、週に約38時間もステージでピアノを演奏していたといわれています。

この経験によって、ポールの鍵盤演奏は急速に上達しました。

後に「Hey Jude」「Let It Be」「The Long and Winding Road」など、ピアノを中心とした名曲を生み出せた背景には、ハンブルク時代の猛烈な演奏経験があったのです。

8.ジョンは楽器店でハーモニカを万引きした

ハンブルクへ向かう途中、ビートルズ一行はオランダを経由しました。

アーネムという町の楽器店へ立ち寄った際、ジョンはハーモニカをポケットに入れ、そのまま店外へ持ち出したと伝えられています。

店を出たジョンは、盗んだハーモニカを仲間へ見せ、うれしそうに吹いていたといいます。

ジョンは若い頃から、権威や社会的な規則に反発する人物でした。頭の回転が速くユーモアに富んでいた一方、衝動的で攻撃的な行動も少なくありませんでした。

もちろん万引きは犯罪であり、破天荒な武勇伝として美化できる話ではありません。

それでもこのエピソードからは、成功する前のジョンが、後に世界平和を訴えた人物というイメージだけでは捉えられない、複雑な性格の持ち主だったことが分かります。

9.コンドームに火をつけて逮捕・強制送還された

最初のハンブルク遠征の終盤、ビートルズは雇い主ブルーノ・コシュミダーとの関係を悪化させていました。

メンバーがコシュミダーのライバルである「トップ・テン・クラブ」へ移ろうとしたからです。

この頃、ポールとピート・ベストは、宿泊先として使っていた映画館の部屋で悪ふざけをしました。壁に掛けたコンドームに火をつけたところ、想定以上に燃え、壁の一部を焦がしたとされています。

コシュミダーは2人を放火の疑いで警察へ通報しました。ポールとピートは逮捕され、最終的にイギリスへ強制送還されます。

後に世界を代表するミュージシャンとなるポールが、くだらない悪ふざけでキャリアを失いかけていたのです。

10.ジョージは若すぎてハンブルクから追い出された

最初のハンブルク遠征当時、ジョージはまだ17歳でした。

ドイツの規則では、未成年者が深夜のナイトクラブで働くことは認められていませんでした。しかし、ビートルズは連日のように深夜から早朝まで演奏していました。

契約を破ろうとしたバンドに腹を立てたコシュミダーは、ジョージの年齢を警察へ通報します。

その結果、ジョージは強制送還されました。

続いてポールとピートも放火の疑いで送還され、ジョンもイギリスへ帰国します。最初のハンブルク遠征は、バンドが華々しく凱旋するのではなく、メンバーが次々と国外へ追い出される形で終わりました。

11.長時間演奏を乗り切るため覚醒作用のある薬を使った

ハンブルクのクラブでは、1日に何時間も演奏する必要がありました。

疲れていてもステージに立ち続け、客を盛り上げなければなりません。そこでメンバーが使うようになったのが、「プレルディン」と呼ばれる覚醒作用のある錠剤です。

特にジョン、ジョージ、スチュアート・サトクリフは積極的に使用したと伝えられています。ポールは比較的慎重でしたが、最終的には服用していました。

薬の影響で異常な興奮状態になることもありました。ジョンが口から泡を吹くほど興奮し、周囲の人を恐怖させたという証言も残っています。

ハンブルク修業はビートルズの演奏力を高めましたが、その裏側には過酷な労働環境と危険な薬物使用がありました。

12.ジョージとリンゴは加入前から危険なカーレースをしていた

リンゴがビートルズへ入る前から、ジョージとリンゴは親しい音楽仲間でした。

ジョージが初めて自動車を手に入れた頃、2人は公道でカーレースのような競争をしたといわれています。

当時のリンゴは無免許で車を運転していたという証言もあります。競争中に犬が道路へ飛び出し、リンゴが急ブレーキをかけたため、ジョージが先に走り去りました。

驚くべきことに、ジョージはリンゴの状況を十分に確認せず、そのまま帰宅したと伝えられています。その後、2人はしばらく会わなかったといいます。

現在では考えにくい、若い頃の無謀さを示す逸話です。

13.リンゴは加入直後から「Don’t Pass Me By」を持っていた

リンゴは1962年にビートルズへ加入して間もない頃、自作曲をメンバーに聴かせていました。

その曲が「Don’t Pass Me By」です。

ところが、ビートルズのレコードへ収録されたのは、約6年後の1968年でした。2枚組アルバム『The Beatles』、通称『ホワイト・アルバム』に収録されています。

リンゴはアルバムごとに1曲程度のボーカルを任されていましたが、初期には主にジョン、ポール、ジョージの曲やカバー曲を歌っていました。

「Don’t Pass Me By」は、リンゴが単独で作詞・作曲した初のビートルズ楽曲です。

加入直後から存在していた曲を何年も温め続け、バンド後期になってようやく発表したことになります。

14.ピート・ベストの解雇でビートルズが襲われた

レコードデビューを控えたビートルズには、大きな問題がありました。

プロデューサーのジョージ・マーティンが、ピート・ベストのドラム演奏に満足していなかったのです。メンバーとマネージャーのブライアン・エプスタインは、ピートを解雇することを決めました。

しかし、ピートは女性ファンから高い人気を得ていました。解雇が地元音楽紙『マージー・ビート』で報じられると、ファンによる抗議が起こります。

「ピートを返せ」と叫ぶファンから、ジョン、ポール、ジョージが罵声を浴びせられたり、殴りかかられたりしたと伝えられています。

現在ではジョン、ポール、ジョージ、リンゴという4人が当然の編成に見えます。しかし、リンゴの加入は最初から歓迎されていたわけではありません。

15.リンゴは正式加入直後の録音でタンバリンを叩かされた

ピート・ベストの後任として、リンゴ・スターがビートルズへ加入しました。

しかし、プロデューサーのジョージ・マーティンは、リンゴと仕事をした経験がありませんでした。デビュー曲の録音を失敗させないため、スタジオ・ドラマーのアンディ・ホワイトを呼びます。

アンディがドラムを担当した録音では、正式ドラマーであるリンゴはタンバリンを演奏しました。

リンゴは、ビートルズに加入した直後にもかかわらず、自分の実力を信用されていないことにショックを受けました。このときの屈辱を長く忘れなかったと語っています。

なお、「Love Me Do」にはリンゴがドラムを演奏した版と、アンディ・ホワイトが演奏した版が存在します。最初に発売されたイギリス盤シングルには、リンゴのドラムによる録音が採用されました。

16.ジョージ・マーティンに「ネクタイが気に入らない」と言った

ビートルズがプロデューサーのジョージ・マーティンと初めて本格的に顔を合わせたときのことです。

マーティンはメンバーに対し、「何か気に入らないことはあるか」と尋ねました。

するとジョージ・ハリスンが、「まず、あなたのネクタイが気に入りません」と答えたと伝えられています。

緊張するオーディションの場でありながら、遠慮なく冗談を言ったのです。

マーティンは演奏の完成度だけでなく、4人の会話の面白さ、頭の回転の速さ、個性に可能性を感じました。

ビートルズが成功した理由は、音楽だけではありません。インタビューや記者会見で見せるユーモアも、世界中の若者を引きつける重要な魅力でした。

17.「Please Please Me」はテンポを変えて大ヒットした

「Please Please Me」は、当初もっと遅いテンポで演奏されていました。

ジョンはロイ・オービソンのような、ゆっくりとした劇的な曲をイメージしていたとされています。

しかし、ジョージ・マーティンは曲に可能性を感じながらも、そのままでは弱いと判断しました。そこでテンポを速くし、ハーモニーとハーモニカを生かした勢いのあるアレンジを提案します。

録音を終えたマーティンは、「おめでとう。君たちは初めてのナンバー1を手にした」と語ったと伝えられています。

「Please Please Me」はイギリスで大ヒットし、ビートルズを全国的な人気者にしました。

楽曲の魅力だけでなく、プロデューサーの客観的な判断が成功につながった例です。

18.ファーストアルバムをほぼ1日で録音した

1963年2月11日、ビートルズはファーストアルバム『Please Please Me』の主要な録音を行いました。

レコーディングにかけた時間は約13時間です。

現在の人気アーティストであれば、アルバム制作に数カ月から数年をかけることもあります。しかし、当時のビートルズは予算も時間も限られた新人でした。

一方、キャヴァーン・クラブやハンブルクで何度も同じ曲を演奏していたため、ライブに近い形で次々と録音できました。

最後に残された曲が「Twist and Shout」です。

ジョンは風邪をひいており、声も弱っていました。負担の大きな歌唱であるため、成功の機会は事実上1回しかありません。

ジョンはシャツを脱ぎ、ミルクを飲みながら声を振り絞りました。その荒々しい歌唱は、結果的にビートルズ初期を代表する名演となりました。

19.王室の前で「宝石を鳴らしてください」と言った

1963年11月、ビートルズは王室主催の「ロイヤル・ヴァラエティ・パフォーマンス」に出演しました。

会場には王室関係者や上流階級の人々も集まっていました。

最後の曲を演奏する前、ジョンは観客に向かって次のような冗談を言いました。

「次の曲では、安い席の方は手拍子をお願いします。ほかの方は宝石をジャラジャラ鳴らしてください」

王室を前にした公演で、階級社会をからかうような発言をしたのです。

無礼として問題になる可能性もありましたが、ジョンの機転とユーモアとして好意的に受け取られました。

リバプール出身の若者が、上流階級を前にしても萎縮しなかったことは、若い世代から大きな支持を集める理由になりました。

20.「Yesterday」は夢の中で生まれた

ある朝、ポールは頭の中に流れていたメロディーとともに目を覚ましました。

近くにあったピアノで、その旋律をすぐに再現します。あまりにも自然で完成されたメロディーだったため、ポールは以前に聴いた曲を無意識に思い出したのではないかと心配しました。

そこで音楽関係者に何度も聴かせ、「この曲を知らないか」と確認しました。誰も知らないことが分かり、ようやく自分のオリジナル曲だと確信します。

正式な歌詞が完成する前には、「Scrambled Eggs」という仮の歌詞をつけて歌っていました。

夢の中で思いついた「スクランブルエッグ」が、最終的に「Yesterday」になったのです。

「Yesterday」はビートルズの通常編成ではなく、ポールの歌とアコースティックギター、弦楽四重奏を中心に録音されました。ロックバンドが表現できる音楽の範囲を広げた代表曲です。

21.シェイ・スタジアムでは自分たちの演奏が聞こえなかった

1965年8月15日、ビートルズはニューヨークのシェイ・スタジアムで公演を行いました。

観客数は約5万5000人です。現在ではスタジアムライブは珍しくありませんが、当時はロックバンドがこれほど大きな会場で演奏すること自体が異例でした。

問題は音響設備でした。

巨大な会場へ音を届けるための本格的なコンサート設備がなく、会場の放送システムに近い機材が使われました。さらに観客の絶叫が大きすぎて、メンバーは自分たちの演奏をほとんど聞けませんでした。

リンゴは、ジョンやポールの体の動きを見ながら、曲の進行とリズムを判断したといわれています。

興行としては歴史的成功でしたが、メンバーにとっては音楽を演奏している実感を得にくい公演でした。こうした経験が、後のツアー撤退につながっていきます。

22.ジョンの「キリストより人気」発言でレコードが燃やされた

1966年、ジョンはイギリスのインタビューで、キリスト教の社会的影響力が低下していることについて語りました。

そのなかで、「キリスト教は消えていくだろう」「ビートルズは今やイエスより人気がある」という趣旨の発言をします。

イギリスでは大きな問題になりませんでした。しかし、数カ月後にアメリカの若者向け雑誌が発言を取り上げると、激しい反発が起こります。

一部のラジオ局はビートルズの曲を放送禁止にし、若者を集めてレコードや関連商品を燃やしました。殺害予告も届き、ツアー会場では狙撃や爆発物を警戒するほど緊迫した状況になります。

ジョンの意図は、自分たちがイエスより偉いと自慢することではありませんでした。しかし、言葉だけが切り取られたことで、世界規模の騒動に発展しました。

普段は強気だったジョンも恐怖を感じ、記者会見で謝罪と説明を行っています。

23.「Strawberry Fields Forever」は異なる2つの録音を接続した

ジョンは「Strawberry Fields Forever」の録音で、異なるアレンジを作りました。

1つは比較的穏やかな演奏で、もう1つは管楽器やチェロを使った重厚な演奏です。

ジョンは両方の出来を気に入り、前半と後半をつないで1曲にしてほしいとジョージ・マーティンへ頼みました。

しかし、2つの録音はテンポも音程も違っていました。

現在ならデジタル編集で調整できますが、当時は磁気テープの時代です。スタッフはテープの再生速度を変え、音程とテンポを近づけたうえで、実際にテープを切って接続しました。

偶然にも2つの録音はうまくつながり、曲の途中から音の世界が微妙に変化する幻想的な作品となりました。

技術上の制限が、かえって独特のサウンドを生んだのです。

24.世界同時中継のために「All You Need Is Love」を作った

1967年6月25日、ビートルズは世界規模の衛星テレビ番組『Our World』へイギリス代表として出演しました。

多くの国で同時に放送されるため、言葉や文化の違いを越えて伝わるメッセージが必要でした。

そこで用意されたのが「All You Need Is Love」です。

「愛こそはすべて」という単純で普遍的な言葉を繰り返すことで、英語が分からない視聴者にも曲の主題を伝えられるようにしました。

スタジオにはミック・ジャガー、キース・リチャーズ、エリック・クラプトン、マリアンヌ・フェイスフルなど、ビートルズと親しい人物が集まったとされています。

エンディングでは「She Loves You」など、過去の曲の一部も登場します。

ビートルズはこの放送によって、イギリスの人気バンドではなく、世界へメッセージを発信する時代の象徴となりました。

25.『Magical Mystery Tour』は脚本なしで撮影を始めた

1967年8月、マネージャーのブライアン・エプスタインが亡くなりました。

バンドを前進させるため、ポールはテレビ映画『Magical Mystery Tour』を企画します。

しかし、明確な脚本や詳細な撮影計画はほとんど用意されていませんでした。出演者をバスに乗せて旅行し、その途中で不思議な出来事が起こるという大まかな発想だけで撮影を始めます。

ビートルズは、即興性から面白い映像が自然に生まれると考えていました。

実際には何を撮影するかが定まらず、現場は混乱しました。完成した映画も筋書きが分かりにくく、テレビ放送後に酷評されます。

ただし、「I Am the Walrus」「The Fool on the Hill」など、映画で使われた音楽は現在も高く評価されています。

何をやっても成功してきたビートルズが、初めて「自分たちだけでは映画を管理できない」と思い知らされた作品でした。

26.リンゴは『ホワイト・アルバム』制作中に逃げ出した

1968年の『ホワイト・アルバム』制作では、メンバーが別々に録音することが増えていました。

リンゴは、自分のドラム演奏に自信を失い、ほかの3人が自分を必要としていないと感じるようになります。

ついには「自分は十分に良い演奏ができない」と告げ、スタジオを離れました。

リンゴがいない間、一部の曲ではポールなどがドラムを担当します。しかし、ジョン、ポール、ジョージはリンゴへ連絡し、演奏を高く評価していることを伝えました。

リンゴが戻ってくると、ジョージはスタジオを花で飾って歓迎しました。

メンバー同士の関係が悪化していた時期ですが、リンゴを必要とする気持ちは残っていたのです。

27.ジョージはゲット・バック・セッション中に脱退した

1969年1月、ビートルズは原点に戻り、4人で演奏する姿を撮影する「ゲット・バック・セッション」を始めました。

しかし、寒い映画撮影所で早朝からカメラを回される環境は、メンバーにとって大きなストレスでした。

バンドをまとめようとするポールは、ジョージのギター演奏にも細かく指示を出しました。

ポールの言い方に不満を募らせたジョージは、ついに「バンドを辞める」と告げてセッションを離れます。

ジョージが戻らない場合、エリック・クラプトンを代わりに迎える案まで口にされたといいます。

話し合いの結果、撮影場所をトゥイッケナムからアップル本社へ移し、大規模な公開公演の計画を縮小することなどを条件に、ジョージは復帰しました。

この出来事は、ビートルズがすでに解散寸前だったことを示しています。

28.ビリー・プレストンが来たらメンバーの喧嘩が止まった

ジョージがゲット・バック・セッションへ復帰した後、キーボード奏者のビリー・プレストンがスタジオを訪れました。

ビリーは、ビートルズがハンブルクでリトル・リチャードと共演した頃からの知り合いです。

ジョージはビリーにセッションへの参加を提案しました。ビリーがキーボードを弾くと、音楽に新しい要素が加わり、メンバーも演奏に集中するようになります。

外部の人物がいる前では、4人とも激しい口論を控えました。ビリーの参加には、音楽面だけでなく、険悪な空気を和らげる効果もあったのです。

ビリーは「Get Back」「Don’t Let Me Down」などで重要な演奏を残し、屋上ライブにも参加しました。

「Get Back」のシングルでは「ザ・ビートルズ・ウィズ・ビリー・プレストン」と表記されています。ビートルズのシングルで、外部ミュージシャンが正式にクレジットされた珍しい例です。

29.最後のライブは自分たちの会社の屋上で行われた

ゲット・バック企画では、ライブの開催場所について、さまざまな案が出されました。

船上、砂漠、古代の円形劇場など、世界的バンドにふさわしい壮大な案も検討されたといいます。

しかし、メンバーには大規模な遠征を実行する意欲がありませんでした。

最終的に選ばれたのは、ロンドンのサヴィル・ロウにあるアップル本社の屋上です。

1969年1月30日、ビートルズは事前告知なしで演奏を始めました。音を聞いた周辺の会社員や買い物客が路上へ集まり、窓や屋根から演奏を見ようとします。

やがて騒音の苦情を受けた警察官が屋上へ入り、演奏は終了しました。

メンバーの一部は、警察に逮捕されれば映画の結末として面白くなると期待していたともいわれます。しかし、実際には演奏を止めるよう求められただけでした。

最後にジョンは、「グループと僕たち自身を代表してお礼を申し上げます。オーディションに合格していることを願います」と冗談を述べました。

これがビートルズ4人による最後の公のライブです。

30.『Abbey Road』のジャケット撮影は約10分で終わった

『Abbey Road』のジャケットは、音楽史上最も有名な写真の1つです。

ジョン、リンゴ、ポール、ジョージの4人が、アビイ・ロード・スタジオ前の横断歩道を一列になって歩いています。

大がかりな撮影に見えますが、実際の撮影は1969年8月8日の午前中、約10分間で終わりました。

警察官が短時間だけ道路の交通を止め、カメラマンのイアン・マクミランが脚立の上から撮影しました。4人は横断歩道を何度か往復し、そのうちの1枚がジャケットに採用されます。

写真ではポールだけが裸足で、ほかの3人と足の運びも異なっています。

この姿が「ポールはすでに死亡しており、別人と入れ替わっている」という都市伝説の材料になりました。ジョンの白い服は聖職者、リンゴの黒い服は葬儀屋、ポールの裸足は死者、後ろを歩くジョージは墓掘り人を表しているという解釈まで登場します。

しかし、ポールによれば、単に暑かったので履いていたサンダルを脱いだだけでした。

偶然生まれた小さな違和感が、世界規模の都市伝説に発展したのです。

ビートルズの逸話から見えてくる4人の素顔

今回紹介した30のエピソードを見ると、ビートルズが最初から完成された特別な存在だったわけではないことが分かります。

ジョンは知的でカリスマ性がある一方、衝動的で暴力的な面を抱えていました。ポールは親しみやすい人物に見えますが、音楽には非常に厳しく、その完璧主義がメンバーとの衝突を招きました。

ジョージは「静かなビートル」と呼ばれましたが、加入前にはジョンを追い回し、バンド後期には自分の意見をはっきりと主張しています。

リンゴは温厚な人物として知られていますが、自信を失ってバンドを飛び出したこともありました。それでも4人の関係を和らげる存在であり、ほかのメンバーから必要とされていました。

4人は性格も音楽的な関心も異なっていました。その違いが衝突を生んだ一方で、ビートルズにほかのバンドにはない多様性を与えました。

まとめ|失敗や偶然まで音楽史の一部になったビートルズ

ビートルズの歴史には、綿密に計画された成功だけでなく、失敗、偶然、悪ふざけ、喧嘩が数多く含まれています。

ポールとの出会い、ジョージのバス内オーディション、ハンブルクからの強制送還、リンゴの加入など、どれか1つが違っていれば、現在知られているビートルズは誕生しなかったかもしれません。

「Yesterday」は夢の中で生まれ、「Strawberry Fields Forever」は異なる録音を無理やり接続したことで完成しました。最後のライブも壮大な会場ではなく、会社の屋上で行われています。

こうした偶然や制約を作品へ変える力こそ、ビートルズの最大の特徴だったといえるでしょう。

4人はわずか約8年間のレコード活動で、ロックバンドのあり方、作詞・作曲、アルバム制作、録音技術、ライブの規模、映像表現まで変えました。

そして、その歴史を深く知るほど、ビートルズの音楽はさらに面白く聞こえてくるのです。

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