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エディ・ヴァン・ヘイレンの生涯|ライトハンド奏法でロック史を変えた天才ギタリストの光と影

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エディ・ヴァン・ヘイレンとは何者だったのか

エディ・ヴァン・ヘイレンは、エレキギターの歴史を大きく変えたギタリストです。

赤・白・黒のストライプ模様が印象的な自作ギター「フランケンシュタイン」を抱え、常人には到底まねできない超絶技巧を軽々と弾きこなす姿は、多くのロックファンに強烈な衝撃を与えました。

特に彼が広めた「ライトハンド奏法」は、エレキギターの表現力を一気に押し広げました。ジミ・ヘンドリックス以来のギター革命とも言われ、エディ登場以降、多くのギタリストが彼のフレーズやサウンドを追い求めるようになりました。

しかし、その明るく無邪気な笑顔の裏には、決して平坦ではない人生がありました。人種差別に苦しんだ少年時代、バンドメンバーとの対立、アルコールや薬物への依存、そして長年にわたる癌との闘病。エディの人生は、栄光だけでなく苦悩にも満ちていました。

オランダで生まれ、アメリカへ渡った少年時代

エディ・ヴァン・ヘイレンは、1955年1月26日、オランダのアムステルダムで生まれました。

父親のヤンは、クラシックの訓練を受けたクラリネット奏者でありサックス奏者でした。母親のユージニアはインドネシア系の血を引く女性です。エディと兄のアレックスは、幼い頃から音楽に囲まれて育ちました。

しかし、当時のオランダでは有色人種への差別が根強く、母親や子供たちへの風当たりも強いものでした。一家はより良い生活と自由を求め、エディが7歳の時にアメリカ・カリフォルニア州パサデナへ移住します。

ところが、移住先で待っていたのも厳しい現実でした。英語を話せなかったエディとアレックスは学校で孤立し、白人の子供たちからはマイノリティとして扱われ、黒人の子供たちからも仲間外れにされました。

どこにも居場所がない少年時代。その孤独を埋めたのが音楽でした。

最初の楽器はギターではなくピアノだった

意外にも、エディが最初に才能を発揮した楽器はギターではなくピアノでした。

彼は楽譜を読むことができなかったにもかかわらず、先生の手元を見ただけでバッハやモーツァルトの曲を記憶し、演奏してしまうほどの驚異的な耳を持っていました。地元のピアノコンクールでは、3年連続で優勝したといわれています。

やがて思春期を迎えると、ビートルズやデイブ・クラーク・ファイヴなどのロックンロールに強く影響を受けます。エディは新聞配達のアルバイトで貯めたお金でドラムセットを購入しました。

しかし、ある日、兄のアレックスがエディのドラムをこっそり叩いている姿を目にします。しかも、持ち主であるエディよりも上手く叩いていたのです。

そこでエディはドラムを兄に譲り、自分はギターを手にします。この偶然の楽器交換が、ロックの歴史を変える大きな分岐点となりました。

ギターに取り憑かれた少年

ギターを手にしたエディの没頭ぶりは尋常ではありませんでした。

部屋にこもり、エリック・クラプトンのレコードを何度も聴き込み、1音1音を完璧にコピーしていきます。食事中も、歩く時も、常にギターを首から下げていたといわれています。

言葉で自分を表現できなかった少年にとって、ギターは本当の声でした。孤独や悔しさ、怒り、喜び。そのすべてを音に変えるための武器が、ギターだったのです。

ヴァン・ヘイレン結成とロサンゼルスでの成功

1972年、エディとアレックスは「マンモス」というバンドを結成します。

当初、エディはギターとボーカルを兼任していましたが、次第に限界を感じるようになります。そこで加入したのが、派手なパフォーマンスと強烈な存在感を持つデイヴィッド・リー・ロスでした。

さらに、安定したベースと高音コーラスを持つマイケル・アンソニーが加わります。こうして、エディ・ヴァン・ヘイレン、アレックス・ヴァン・ヘイレン、デイヴィッド・リー・ロス、マイケル・アンソニーという伝説の4人組が完成しました。

バンド名は「ヴァン・ヘイレン」に変更され、ロサンゼルスのクラブシーンで急速に注目を集めます。デイヴィッドの華やかなフロントマンぶりと、エディの誰も見たことがないギタープレイは、観客を圧倒しました。

やがて彼らは、キッスのジーン・シモンズに見出され、デモテープを制作します。その後、ワーナー・ブラザーズと契約し、メジャーデビューへの道を切り開きました。

「炎の導火線」とライトハンド奏法の衝撃

1978年、ヴァン・ヘイレンはデビューアルバム「炎の導火線」を発表します。

このアルバムに収録されたギターインストゥルメンタル曲「暗闇の爆撃」は、世界中のギタリストに衝撃を与えました。わずか1分42秒の曲ながら、その破壊力は絶大でした。

右手で指板上の弦を直接叩き、高速で流れるようなアルペジオを生み出すライトハンド奏法。まるでシンセサイザーのように正確でありながら、獣のような荒々しさもあるサウンドは、それまでのギターの常識を完全に壊しました。

実はこの曲は、エディがライブ前のウォームアップで弾いていたフレーズをプロデューサーが偶然耳にし、アルバムに入れるよう指示したものです。本人はミスがあるから録り直したいと考えていましたが、その荒削りなテイクこそが伝説になりました。

自作ギター「フランケンシュタイン」とブラウンサウンド

エディの革新性は演奏技術だけではありません。機材へのこだわりも並外れていました。

当時の市販ギターでは、フェンダー・ストラトキャスターのような鋭い音と、ギブソン・レスポールのような太く歪んだ音を同時に得ることが難しい状況でした。

そこでエディは、自分で理想のギターを作ることにします。

50ドルで買ったストラトキャスター型のボディに、ギブソン系のハムバッカー・ピックアップを無理やり埋め込み、自転車用のペンキで赤・白・黒のストライプ模様に塗り上げました。

これが、後に「フランケンシュタイン」と呼ばれる伝説のギターです。

エディが追い求めた独自の音色は「ブラウンサウンド」と呼ばれ、今も世界中のギタリストにとって憧れのトーンとなっています。

世界的成功と音楽性をめぐる葛藤

ヴァン・ヘイレンはアルバムを重ねるごとに巨大な成功を収め、世界で最も稼ぐロックバンドの1つとなりました。

しかし、成功の裏でエディは強い不満を抱えるようになります。

彼は単なるギターヒーローではなく、幼少期からピアノで音楽を学んだ作曲家でもありました。ハードロックの枠に縛られず、シンセサイザーなども使いながら、より幅広い音楽を作りたいと考えていました。

一方、デイヴィッド・リー・ロスや周囲の関係者は、ヴァン・ヘイレンはギター中心のハードロックバンドであるべきだと考えていました。

この対立が、後の大きな亀裂につながっていきます。

「1984」と「ジャンプ」の大成功

エディは自宅の裏庭にプライベートスタジオを建設します。そのスタジオは「5150」と名付けられました。

そこで生まれたのが、1984年に発表されたアルバム「1984」です。

リード曲「ジャンプ」は、印象的なシンセサイザーのイントロで始まる楽曲でした。ギターではなくシンセサイザーを前面に出したこの曲は、ヴァン・ヘイレンにとって初の全米チャート1位を獲得します。

アルバムは1000万枚以上の大ヒットとなり、エディの音楽的直感が正しかったことを証明しました。

しかし皮肉にも、この大成功がバンド内の対立を決定的なものにします。ロックンロール色を重視するデイヴィッドと、より深い音楽性を追求したいエディの溝は埋まりませんでした。

そして1985年、デイヴィッド・リー・ロスはバンドを脱退します。

サミー・ヘイガー加入と第2期ヴァン・ヘイレン

デイヴィッドの脱退により、世間は「ヴァン・ヘイレンは終わった」と見ていました。

しかし、バンドは新たなボーカリストとしてサミー・ヘイガーを迎えます。サミーはデイヴィッドのような派手なショーマンではありませんでしたが、圧倒的な歌唱力とソウルフルな声を持っていました。

1986年にリリースされたアルバム「5150」は、全米初登場1位を獲得します。これはデイヴィッド時代にも成し遂げられなかった快挙でした。

「ホワイ・キャント・ディス・ビー・ラブ」や「ドリームス」などの楽曲により、ヴァン・ヘイレンは単なるパーティーロックバンドから、成熟したハードロックバンドへと進化します。

この時期のヴァン・ヘイレンは、しばしば「ヴァン・ヘイガー」とも呼ばれ、1990年代前半まで大きな人気を維持しました。

アルコールと薬物に蝕まれていく心身

華やかな成功の裏で、エディの心身は確実に蝕まれていきました。

最大の問題は、アルコールと薬物への依存です。エディは12歳の頃から酒を飲んでいたといわれています。人前で演奏する緊張を和らげるため、父親からウォッカを飲めばリラックスできると教えられたことが始まりでした。

その後、ステージに上がる前も、スタジオで作曲する時も、酒が手放せなくなります。完璧主義によるプレッシャー、誰にも理解されない孤独、バンド内の対立。そうした苦しみから逃れるように、エディはウォッカとコカインに頼るようになりました。

かつて明るい笑顔を見せていたエディは、次第に周囲と衝突するようになります。そして1996年、サミー・ヘイガーもバンドを去りました。

迷走、病気、そしてギターの神様の転落

サミー脱退後、ヴァン・ヘイレンは元エクストリームのゲイリー・シェローンをボーカルに迎え、1998年にアルバム「ヴァン・ヘイレン3」を発表します。

しかし、この作品は商業的にも批評的にも厳しい結果に終わりました。

さらに2000年代に入ると、エディの肉体にも大きな問題が出始めます。長年の激しいステージパフォーマンスにより股関節を痛め、人工股関節置換手術を受けることになります。

そして、彼をさらに追い詰めたのが舌癌でした。

手術により舌の約1/3を切除することになり、コーラスを歌うミュージシャンにとって大きなダメージとなりました。長年の喫煙や、金属製のギターピックを口にくわえる癖が原因の1つではないかとも語られています。

私生活でも、長年連れ添った妻ヴァレリー・バーティネリと別居し、のちに離婚します。

2004年にはサミー・ヘイガーが一時復帰してツアーが行われましたが、その頃のエディは酒に溺れ、チューニングすら不安定な状態だったといわれます。かつてのギターの神様とは思えない姿に、ファンやメディアからは失望の声も上がりました。

息子ウルフギャングが救った父の人生

暗闇の中にいたエディを救ったのは、息子のウルフギャング・ヴァン・ヘイレンでした。

ウルフギャングは、父親を再び音楽の世界へ戻すため、15歳という若さでヴァン・ヘイレンにベーシストとして加入することを決意します。

息子と一緒にステージに立ちたい。その願いが、エディにとって生きる力になりました。

2007年、エディは自らリハビリ施設に入り、アルコールと薬物を断ち切ります。ウルフギャングはセットリストを考え、父が長年演奏していなかった曲を思い出す手助けもしました。

同年、初代ボーカルのデイヴィッド・リー・ロスも復帰し、エディ、アレックス、ウルフギャング、デイヴィッドという編成でツアーが再開されます。

ステージ上で息子が立派にベースを弾く姿を見つめるエディの顔には、かつての太陽のような笑顔が戻っていました。

晩年の復活と最後の闘病

2012年、ヴァン・ヘイレンは14年ぶりとなるオリジナルアルバム「ア・ディファレント・カインド・オブ・トゥルース」をリリースします。

このアルバムは全米2位を記録し、エディの完全復活を印象づけました。

しかし、病魔は彼を完全には解放しませんでした。癌は喉や肺、さらには脳へと転移し、エディは長く苦しい闘病生活を送ることになります。

それでも彼は最後まで音楽への情熱を失いませんでした。病床でも新しい機材のアイデアを考え、息子ウルフギャングのソロアルバム制作を心待ちにし、アドバイスを送り続けました。

そして2020年10月6日、カリフォルニア州の病院で、家族に見守られながらエディ・ヴァン・ヘイレンは65年の生涯を閉じました。

最後に息子へ伝えた言葉は「アイ・ラブ・ユー」だったといわれています。

エディ・ヴァン・ヘイレンが残したもの

エディ・ヴァン・ヘイレンが残したものは、単なるギターテクニックではありません。

ライトハンド奏法、ブラウンサウンド、フランケンシュタインギター、そして音への飽くなき探求心。彼はギターという楽器の可能性を広げ、世界中のギタリストに「まだ誰も聴いたことのない音を作れる」という夢を与えました。

彼は天才と呼ばれましたが、その人生は決して順風満帆ではありませんでした。差別、孤独、依存症、病気、バンド内の対立。数え切れない苦しみを経験しながらも、最後までギターを弾く喜びを手放しませんでした。

まとめ

エディ・ヴァン・ヘイレンは、エレキギターの歴史を変えた革命家でした。

オランダからアメリカへ移住し、差別と孤独の中で音楽を自分の言葉として身につけた少年は、やがて世界中のギタリストが憧れる存在になります。

ライトハンド奏法によってギターの常識を壊し、自作ギター「フランケンシュタイン」で理想の音を追求し、「ジャンプ」ではシンセサイザーを取り入れてバンドの音楽性を広げました。

一方で、アルコールや薬物への依存、バンドメンバーとの対立、癌との闘病など、人生の後半は苦しみの連続でもありました。

それでもエディは、最後まで音楽への情熱を失いませんでした。息子ウルフギャングとの共演によって再び笑顔を取り戻し、シラフでギターを弾く喜びを再発見しました。

エディ・ヴァン・ヘイレンの魅力は、完璧な天才だったことではありません。泥にまみれ、何度も壊れそうになりながら、それでも無邪気な笑顔でギターを弾き続けたことにあります。

彼の音は今も色褪せることなく、世界中のロックファンとギタリストの心の中で鳴り続けています。

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